散文の三 続けることについて

幸せには真っ先に慣れていくのに、辛いことには一向に慣れることができないのは人間のシステムバグだと思う。
今年の頭に友人が亡くなり、そんな事を感じていたのに、半年ほど経った今、自分は驚くほどそれ以前と変わらない生活を過ごしていて、彼とは全く関係のないことではしゃいだり、落ち込んだり、もう何だか全部が嫌になったり、立ち直ったりしている。

一時期、私は彼と二人でルームシェアをしていた。
彼の引っ越しで空き部屋に持ち込まれたのは、衣類(恐ろしくダサいパーカーが何着も)と漫画(宇宙兄弟とねむようこの作品シリーズ)、それとダンベル(5kg)くらいだった。
彼はこれといった趣味は特になく、強いていうのであれば筋トレくらいだった。大学在学中に世話になっていたバイト先を卒業後も続け、社員への勧誘をいなしながらフリーターとして生活をしていた。
在学中は舞台役者として演技を学んでいたが、卒業後は演劇を続けることはなかった。
「同期の舞台を続けている奴らを見ていると、俺にはあいつらと同じほどの熱量はないし、続ける理由もないかなと思う」
彼はべつに悲しそうでもなく、悔しそうでもなく淡々とそういっていた。
また、高校時代は軽音部に在籍していて、バンドでベースを弾いていたらしい。
私も高校時代にバンドをしていたので、一緒に暮らしていた部屋には私のベースがあった。しかし、彼にベースを弾いてくれ戯れに言ってみても、乗り気になることは一度もなく「バンドもやってないし、もう弾く理由もないしな」とこれも淡々というだけだった。
彼はたまに急激にゲームや漫画にハマることはあったが、クリアしたり熱が冷めると中古屋へ売りに行き、嘘のように何もない(散らかった服とダンベルだけの)部屋に戻るのだった。

そんな彼は特に熱中するものがない冷めた性格の人間かと言われると、そんなことはまるでなかった。
クールぶっている割には気づけば誰からにイジられ、また彼も誰かをイジり、誰かの冗談には気持ちよさそうに笑う、そんな風に楽しそうにしていることの方が圧倒的に多かった気がする。

何かを追いかけて情熱的に人生を全うしていたわけではないのかもしれないが、決して彼は家族や友人に恵まれなかったわけではないし、彼が関わってきた人たちからどれほど愛されていたのかは今となっては嫌というほど知っている。
もし「なんでやめちゃったのさ」と聞いても、「続ける理由もないしな」と返される気がする。きっと彼は死のうとしたというよりも、生き続ける事をやめてしまっただけなのかもしれない。

彼が亡くなった時、私たちの親世代の人たちが「こんなに若いのに」と口々にこぼしていた。
それは至極正論で、きっと彼が倍生きていたら、その間に彼が楽しいと感じる回数も倍どころではなかっただろう。でもそれは逆も然りで、自分の若さを実感しているからこそ、その途方もない残り時間が退屈で憂鬱な恐ろしいものに思えてくることもある。
若いからこその視野の狭さが死に追いやるという話も納得できるが、若いからこそ見えるその距離にリタイアの手を上げたくなるのではないだろうか。

2019年12月、彼は一度失踪した事があった。
ちょうど私とルームシェアをしている時期で、私は彼が帰らないことに違和感を感じながらも2日間ほどは実家に帰っているのだろうと思い特に何もしなかった。3日が過ぎた頃、異常を感じて連絡などを回し、結果的に翌週あたりに彼は無事に見つかった。死のうとしていたらしい。
彼は一週間ほど実家でゆっくり過ごし、また私と住んでいたルームシェア先に戻ってきた。
彼は玄関でひとしきり泣いて、落ち着いてきたら畳の上で深くタバコを吸い、「俺の大冒険、何から聞きたい?」と冗談をふかしてきた。
私は少し笑って「全部聞かせてくれ」とだけ返し、それから先はずっと相槌を打ち続けた。
死のうと試した事はことごとく失敗したこと。
偶然母校の嫌いだった先生とすれ違い、「このまま死んだら最後にあった知り合いはあの人になるのか」とちょっと悔しくなったこと。
ふとワンピースを立ち読みして最終回が気になったこと。
どんどん死にたいのかが解らなくなっていって、死ぬ必要も度胸もないことを知り、気付けば実家の近くに辿り着いていて、偶然母親に発見されたこと。
最後まで彼は死のうと思った明確な理由は話そうとしなかったけれど、その大冒険の道中で彼が「もうちょっと生きてもいいかな」と揺らいだきっかけはどれもくだらなくて、私はそれに深く安心したのを覚えている。

それなのに、2022年1月、彼は成功してしまった。
色々な感情がぐるぐる回りながら、自分の中には「ずるい」という気持ちがあった。
「あいつ、いち抜けやがった」
私はどこかでそんなふうに思っていた。
自分は始めたことを背負って継続して、人と関わって嫌なことも出来ないことも色々とやらないといけないことで一杯一杯で、もう全部意味もない気がしてきてもリタイアせずにいるのに、なんでお前がと思った。
私は好きな漫画や小説や音楽や美術家も、書籍を集めてCDを集めて本棚にはしこたま並べた。美術も音楽も文筆も、始めてみたり活動してきたものに手がつけられなくなっても、未練がましく集めた物や肩書きを残し、何も捨てることができなかったのに、彼はポンポンと潔く趣味も経験も捨てて辞めていって、しまいには退場してしまった。
きっと私にとってその潔さには妬みと同時に羨ましさがあった。
葬儀に来られた少しと、会場には来れなかった大勢の人が彼を弔っていたが、それを彼は知らないのだ。馬鹿だと思う。
きっとワンピースの最終回や嫌いな先生の顔よりも、こっちの方がよっぽどもう少し生き続けてみる理由になったのではないだろうか。

やらないといけない事が増えて、できない事とできていない事がどんどん見えてきて、ほんの少しだけできることが増える。きっとみんなそれを繰り返して何かを着実に続けてきているのだろうが、私はそれが本当に本当に面倒で、今の自分に何ができるのか自信がない。
私は決して何かを続けることができる人ではなく、単に何かを捨てる事が怖いだけの人なのかもしれない。

もう何もしたくないし全部つまらないなと錯覚することはあるけれど、きっと彼のように全てをキッパリ捨てることはできないし、少しずつ何かを捨てたとしても同時に少しずつ新しく好きなものを集めてしまう気がする。ジリジリと消耗戦のような形で結果的に続いていくのだろう。
色々と思い出し、いまだにふと彼を羨ましく思うけれど、彼はワンピースの最終回を読むことはできないのだ。
魚人島あたりから随分と読んでいないワンピースをまた読み返さないといけない。


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