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【Digression】あたりまえではないと「思う」

例のごとく、専門的な話でも、アカデミックで精緻な議論の上での話でもない、正確さや厳密さよりも言いたいこと(あるいは思いつき)優先の「個人的な、あまりに個人的な」見解あるいは妄言です。

良いものではないと「思う」

私の記事には、(いくつか読んだことがある、という、そんな有難くも、奇特な人がいたならば)気づかれた方もいるかもしれないが、上記のような予防線的文句や特に「〇〇だと思う」という言い回しが多いと思う

同様の言い回しが続くと、見た目的にも良くないし、文章の構成的にも良くないことがあるように思う

これについては、弁解の余地はない、ただの予防線であり、要らぬ保身とは正にこのことだろう。

弁解の余地がないと言いつつ、言い訳がましいことを言うようだが、テクノメモ、備忘録やその他いくつかある分類ではあまりこうした書き方はしないし、より公的な文脈ではもちろん適宜使い分けできている、と思う

何が良いたいか、というとある意味で自分に対して、あるいは自分の中での気持ちの切り替えみたいなものとして使い分けている(のだと思う)。

まあ、要するに言い訳です。

とは言ってもやっぱり、、、

けれども、「思う」という言い回しについての、よくある次のような指摘?には、思うところがあるので、すこし不貞腐れておきたい。

それは、「どんな発言、意見であっても、それはその人の見解に過ぎず、主観的なものなのだから、わざわざ末尾に「思う」をつける必要がない」とか、(またこれは私が尊敬する方の一人がおっしゃっていたことだが、)「〇〇さんの意見なのだから「思った」というのはあたりまえでしょう(だから「思う」なんてつけるのはやめてください)」というような指摘である。

「主観」的とか、もはや、あげ足を取らせにきているような言葉は、取りたい気持ちを抑えに抑えて、あえて既読無視をさせていただくとしても、「ある人の発言というのは、その人の考えたこと、思ったことである」という命題は、(仮にそうだとしても)「あたりまえ」だとか、「そうに決まってる」と即座に断定できるものではないだろうと思う多分

※「全てが主観だ」、とか「客観的な真実こそ」とかそういう類の極論が言いたいわけではないです、念のため。

そのような断定は、「事実」と「評価」についての議論(あるいはこんな議論)を持ち出すまでもなく、というかそれ以前に、なんらかの音の広がり、色のかたまり、を即座に、「意識内容」(「思ったこと」)の表出とみなすのは、過程やらなんやらを抽象化しすぎていると言えないだろうか。

さらにいうなら、先には「意識内容」という言い回しをしたが、当該のそれ自体が、そもそもなんの検討もなく、「自明」のものとして扱えるものなのか(当該のそれが「存在」しているのか、あるいは「存在」していたとして一定の記号体系ときれいに対応するような様相、様態なのか)、という疑問が即座にあがるだろう。

日常的な言い回しにおいて、便宜上あるいは簡便のために、特定の口調や文句が推奨、非推奨とされることはうけいれても、上記の論点を差し置いて、「あたりまえ」と言うのは少し、配慮にも思慮にも欠けているのではなかろうか。

自分で言うのもなんだが、何があたりまえか、あたりまえとは何かとかまで言い出したら、本当に面倒なので、このあたりで尻尾を巻いておこう

まあ要するに

「〇〇と思う」とか、そういう類の言い回しがこれからも頻出しますが、ご了承いただきたい、という、お願いon言い訳の話。

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