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呼び声、花弁にまぎれて

 獣兵衛さま、と呼ぶ声がした。
 見やると、書物を読んでいる弟のそばにイツ花がいる。うちの女中……みたいな娘だ。
「今晩のお夕食ですが」
 どうも献立の相談だったらしい。
 朗らかな二人を、私は庭に立って眺めていた。開け放った縁側の向こうから、蕗の薹の天ぷらだの、菜の花のお浸しだの、美味しそうな名前が耳に流れてくる。
 ふと、頬をかすめるものがあった。
 仰げば桜の木から、はらはらと花弁が落ちている。この花を見るのは二度目だ。去年は父上と一緒だった。
 獣兵衛というのは、父上の名である。けれど、今は弟も獣兵衛だ。

 先月、父上が亡くなり、弟の華牛が二代目当主となって「獣兵衛」を襲名したのである。
 父上の名で呼ばれる華牛に、どうも私は慣れない。切り替えねばと思うのだけれど、その名から脳裏に浮かぶのは、坊主頭の人懐っこい小僧ではなく、生真面目そうな仏頂面なのだった。

 自分のヤワさに溜息をこぼした時、華牛と目が合った。内心、萎縮してしまったけれど、表に出さないよう努めて元気な笑顔を作る。
 いつの間にかイツ花はいなくなっていて、文机の前に華牛がポツンと座っていた。
 縁側に近寄り、文机に広げている書物を覗く。弟が読んでいたのは、術の習得に関するものだった。
「よっ!勉強熱心じゃない」
 褒めてから、彼の口元にヨダレの跡を発見する。
「ははん。さては、居眠りしてたな」
「いやあ、ばれちゃいました?」
 言ってつるつるの頭を掻く。相も変わらず、のほほんとしている。こんな子が二代目当主など務まるのだろうか。
 そんな事を考えて、私は眉間にしわを寄せる。

 当主に華牛が選ばれたのは、私が不甲斐なかったからだ。きっとそう。姉の私にもっと力があれば、弟に当主の重荷を背負わせる事もなかったのに。
 華牛は不思議な子で、基本的にほわほわとしている。虫や鳥を眺めるのが好きで、よく庭に出ては蟻の行列を観察していた。
 温厚な子なのだけれど、この家に来た時はイツ花のお尻を触ってぶたれていた。きっとお尻に蝶か何かがとまっていたのだろう。そういうトロいところもあった。

 私にとっては、目の離せない、おっちょこちょいな弟で。だから、そんな弟を二代目当主にさせてしまったのだと思うと、胸の内に重い石ができた気分になる。
 胸の石は、誰かが華牛を「獣兵衛」と呼ぶ度に、大きく重くなっていった。喉からせり上がってきそうなほど成長したそれを、いつも無理矢理に飲み込んだ。飲み込んでいたのだけれど。

「華牛は当主になるの、嫌じゃなかった?」
 今日は桜があんまり綺麗で、感傷的になってしまったものだから、つい口から突いて出てしまった。

 唐突な質問に、華牛はきょとんとする。あどけない表情からは、鬼を倒す宿命を背負った一族の長とは想像できまい。
 うーん、と華牛は小首を傾げた。
「僕は抜けているんです」
 へらりとした笑みを浮かべる。
「いつも数を間違えるし、道に迷うのなんかしょっちゅうです。お使いの内容もすぐ忘れるものだから、イツ花さんにも匙を投げられる始末で。最近は全然頼んでくれないんですよ。えへへ」
 恥ずかしい限りです、と言いながらも飄々とした様子なので、実際はさして気にしていないのだろう。
 私は華牛の意図が読めなくて、黙ったまま話の続きを待つ。

「人を覚えるのも苦手でして。顔と名前の記憶なんてチグハグで、誰が誰だか。そんな塩梅だから、一度覚えた名前が変わったら、ゼッタイ混乱すると思うんですよ。間違うこと請け合いです。だから、自分が呼ばれる側でよかったですよ。当主が名前を間違えられちゃあ、格好がつかないですもんねぇ」

 朗らかに微笑む華牛に、でも、と私は言い募ろうとする。けれど、その前に華牛の言葉に遮られた。
「名前は呼べば呼ぶほど、相手のことを忘れられなくなると思うんです。名を口にする度に、顔が浮かぶ。声が聞こえる。過ごした日々が甦ってくる。そういうものだと思います。薄い紗を幾重にも重ねたみたいに、呼ぶほど厚くなってゆく。忘れられるはずないですよ」
 だから僕はきっと間違うんだあ、と華牛は自分の頭をぺちりと叩いた。

 忘れられるはずがない。
 その言葉に、何だか見透かされていた気がして、弟の顔をまじまじと見る。けれど、彼はすっとぼけた表情をするばかり。私の悩みを察してのことなのか、判断はつかなかった。

 でも。
 そうか。
 父上が華牛を選んだ理由が分かったかもしれない。
 私が未熟だったからとか、私が信頼できなかったからとか、そうじゃなくて。消去法で華牛を選んだのじゃない。彼が二代目当主に相応しい。そう、父上は考えたのだ。
 私がダメだから代わりに華牛を……なんて、華牛にも無礼だった。

「安心してるようだけど、二代目当主になったら人前に出る機会も増えるんだからね。人を覚えられないなんて、言ってらんないよ」
「うひゃあ」
 悲鳴をあげる弟を笑う。久しぶりに声を出して笑った。随分、息がしやすくなっていた。それで、胸の石が小さくなっていることに気付く。
 ひとしきり笑った後、私は華牛の肩を叩き、しっかりしてね獣兵衛さま、と言った。

#俺の屍を越えてゆけ #譲葉一族列伝外伝

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