手加減をする子供
あなたは「手加減をする子供」と聞いたら、どのような印象を抱くでしょうか?きっと状況や相手によっても色々な印象になることでしょう。
賢い子供に見えるかも知れません。一方で小生意気な子供という風に映るかも知れませんね。
えんじろうは小学生の明るかった時代、割と手加減をする子供だったことを思い出します。
手加減する場面
いつもの遊び仲間の輪の中に、新たな仲間が加わろうというとき、特にその子が自分よりも年下で自分よりも引っ込み思案だった場合に、えんじろうの「手加減モード」は発動します。
その遊びを好きになって欲しい
その時の気持ちは、ただ僕たちが楽しんでるこの遊びを好きになってほしい。そして一緒にやりたいなと思ってほしい。ただそれだけが「目的」になります。
長く遊んでいる遊びなら、当然初心者よりも有利です。でもその時の自分にとって大切なことは有利に遊ぶことではないのです。あくまで初心者の子にこの遊びを好きになり、一緒にやりたくなってもらうことが「目的」になっているのです。
手段としての手加減
こうなるともう「手加減」は、遊びを魅力的に見せるためのパフォーマンスになるわけです。
鬼ごっこなら初心者の子にわざとギリギリのところで捕まってみたり、ある意味小賢しい手段でその子に「やったあ」という気持ちを味わってもらうことを優先します。
気がつくとその子の出す声などのリアクションが大きくなってゆき、笑いが増えてゆく。そんな姿がとても眩しくて嬉しくて、そこには慣れた遊びで有利に立つ以上の楽しさがあったりするんですよね。
純粋な目的と不純な手段
子供って何にでも純粋で真っ白で美しいとか思ってしまいますが、振り返ってみればそれほど純粋できれいなものでもないのかも知れません。
ただ大人以上に目的と手段に対してしっかり使い分けができていて、一見不純に思えるような行いも、純粋な目的のためのお膳立てに過ぎないということがあるのかも知れないと思いました。
意外と大人の方が「こうあるべきだ病」にかかっており、それが目的であろうと手段であろうと、とにかく「手加減」という言葉の持つイメージだけにあれこれしてしまうのかも知れませんね。
まとめ
今回のまとめは「目的」と「手段」はしっかり区別して捉えようということでしょうか。
目的意識をしっかり持つというのはよく言われるけれど、目的以外は全部不要だとか無駄だとか1か0で考えずに、ここからは目的のための手段の領域というのを意識した上でいろんなアプローチができると良いのでしょうね。
ほぼ自分への戒めなのですが、小学生の頃はできたのだから、子供の頃の感覚を思い出せばよいのですよね。手加減の話題から広がってゆき、何が目的か判らん文章になっちゃいました(ダメじゃん!)
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