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(感想)「わからない音楽なんてない−子どものためのコンサートを考える」

この「わからない音楽なんてない −子どものためのコンサートを考える」という大胆な題名の本は、東京交響楽団が2001年度から始めた「こども定期演奏会」の作られ方やデータを中心にし、それに加え、子供のためのコンサートの各国の歴史や、どのようにしてコンサートは作られているのか、子供のためとはどのようなことなのかの考察なども含んだ労作です。この後の文章は読んでいただかなくても、子供向けのコンサートとはどんなものか、または今、子供向けコンサートを企画したい人、必要に迫られている人、そしてさらに、クラシック音楽に馴染みがない人にクラシック音楽を紹介するにはどういうことが必要かを考えている人にはなんらかのヒントや
あるいは自分の考え方の意を強くするものがきっと見つかる本ですから、ぜひ読みましょう!といっておきます。

世の中には「子供のため」と称したものがいっぱいあります。そしてそれは大抵、初心者向け、わかりやすい、ということを言外に含めていることが多く、子供は幼稚で思わず上から目線で教え諭すものという雰囲気を醸し出してるともいえます。
この本を読めばわかることは、「子供」というキーワードによってほとんど区別すべき点はないこと、逆にシビアに対応しないといけない存在だということが明らかにされます。

この「こども定期演奏会」では単に子供向けのプログラムをオーケストラが演奏し指揮者が解説するだけでなく、子供がソリストとして参加したり、オーディションでオーケストラと一緒に演奏するといったことも行われています。さらにコンサートという閉じた空間だけではなく、バックステージやレセプショニストの役割、そして子供がそこに参加するといった企画まであるのです。子供ソリストのリストを見ていると、現在フルート奏者として活躍する新村理々愛氏やチェロ奏者横坂源氏、ヴァイオリン奏者鈴木愛理氏といった名前を見つけることができます。

少し、この本の構成自体をまとめておきましょう。
第1章が開始当初から13年間指揮者そして子供への伝え手として大きな役割を果たした大友直人氏のインタビュー
第2章が2001年度から2013年度の「こども定期演奏会」の各年度の主題や概要
第3章が子供のためのコンサートの歴史を世界各国さらに日本での展開
第4章では「こども定期演奏会」がどのようにコンサート自体がおこなわれ、どのように聴きどころなどがテーマに合わせて伝えられているか
第5章は子供に伝えるとはどのようなことか、台本やメッセージに子供向けはあるのかについて
第6章はこれからの子供向けコンサートはどういう方向性があるのか、どのような研究がなされる必要があるのかへとまとめられていきます。
付録には日本の歴史的な子供向け演奏会の放送プログラムや、「こども定期演奏会」のプログラム、ソリスト、作曲家別一覧など豊富な資料、これだけでもいろいろなことが読み取れ、考えるヒントにもなります。

演奏会といっても1時間半程度の時間のうち、解説が30〜40分、演奏が50〜60分なわけですから、そこに圧縮して毎回の主題に沿ったエッセンスを詰め込むのには大きな苦労(台本作りもプログラム選曲にも)あることがわかりますし、その中でどのように聴きどころを説明するかの具体例が豊富なところも読みどころです。そして私はそこに、やはりクラシック音楽はポピュラー音楽と圧倒的に違うのは鑑賞する芸術であり、その知識があることに優位性があるという、いささか間違うと高尚さやエリート臭につながりかねない部分が明確にされるのを好ましく感じました。それが差別、区別につながるものでなく、純粋に芸術を楽しむためのコツに過ぎないのだということを気づかせてくれます。そのコツに過ぎないことをなんだか特殊な技術であるかのようにしてしまいがちな大人たちこそその勘違いでクラシック音楽を難しくかんがえたり、高尚だと思ったりして縁遠くしているのだと気がつけばこれは「子供向け」だけの問題ではないことに気づくでしょう。

さらにそれはプログラム選曲についても言えます。「こども定期演奏会」のプログラムを見れば、その多彩さには驚きます。もちろん時間制限があるため、交響曲は楽章単位、組曲の一部、さらにそれも部分的に編曲されてダイエットされることがあるにしてもです(マーラーの交響曲第9番は最終楽章だけを15分ほどに編曲して演奏されていたりします)。
たしかにブラームス「ハイドンの主題による変奏曲」、ブルックナーの交響曲第4番、マーラーの交響曲第9番、ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲など従来子供向けで取り上げられることは考えられにくかったでしょう。さらに2008年に行われている日本の作曲家の特集。山田耕筰に始まり、伊福部昭、芥川也寸志、三善晃、武満徹、細川俊夫、冨田勲、三枝成彰、坂本龍一、千住明の各氏の作品が紹介されるコンサートも従来考えられなかったでしょう。そしてこの本で演奏会後の懇親会で子供たちが全く抵抗なく、「みよしがよかったー」「ほそかわー」といっていたという話。こういった部分でも一般のコンサートが名曲でないと客が集まらないといって保守的になり、ますます耳を閉じている大人の世界の現状の情けなさを示しているように思えます。

この本の後半に割かれている、子供に対してどのように書き説明し、または読んでもらうか、どのように子供を遇するかも、いろいろ考えさせられる点があります。子供は知識がない代わりに純粋であるといったことには幻想をもたない(素朴さへの過剰な期待は意味がない)一方で、小さな大人として、丁寧さをわすれず。話の水準は下げない。上から目線や子供の存在でなく付き添う大人を向いてしまう言葉を戒めることなど、教訓とすべきことが多く書かれています。それこそフィリップ・アリエスの「子供の誕生」ではありませんが、昔は子供はすべてにおいて小さな大人に過ぎず、衣服も生活も大人に準じていたのであり、それが過度に保護され区別されるようになったのは近世以降であることを思い起こさせます。たしかに子供は肉体的には弱く、知識がない面はあっても、少なくとも知識のない大人よりも劣るわけではないし、幼稚扱いする理由はないはずです。よく「子供向け」と称するもので見られるような、やたら子供っぽいキャラクターを立てたり、言葉遣いをわざと子供っぽくしたり、無知や幼稚さを前提にした扮装や演技が意味のないこともこの本はいろいろな例で示してくれます。(やたら子供向けコンサートがとかで扮装したがる誰かとかを連想してるわけではありませんよ!w)

私はこの本の中に「子供向け」なんて特に区別すべきものはないというメッセージ以上に、今の大人が足を運ぶコンサートへの問題点を多く見出そうとしてるのかもしれません、だって、ここには普通の大人のクラシック音楽の演奏会に足を運ぶ人々がしない優れた経験が多く語られているからです。そしてそれは一般のコンサートにもなんらかのフィードバックがあってもよいのではないかとも思います。
たとえば、この本の中心として子供にいかにメロディー、ハーモニー、リズムの聴きどころを説明していくかが例示されますが、それと並行して、コンサートにおける静寂や拍手の意味、楽団員の総体としてのオーケストラという存在、演奏会自体の環境、レセプショニストといった私たちが忘れがちなこともきちんと説明されるのですから。私たちが演奏会には行くけれど忘れていることたちです。

この本で大きく印象に残ったこと話が終わりの方にありました。実はささいな話です。ある子供向けコンサートに著者が行った時に開始予定時間よりコンサートが8分遅れて始まったそうです。著者の席の近くに親子が座っていて、その子供は予定開始時間の10分前から「あと10分で始まるね」と分刻みで楽しみにしているのに、時間になっても始まらず、5分遅れた頃からすごく心配そうにしていて、著者は「大人は子供を裏切ってはいけない」と思ったという話です(このコンサート自体、質としてはあまりよくなかったようです)。一般のコンサートで時間通り始まることなんてありませんよね。遅れるのが当たり前。それはいろいろ裏の事情もあるでしょうし、大人の事情もあったりするでしょうが、なんといい加減で、ある意味、傲慢な世界を当たり前と思ってるのだろうと気づいたのです。
この本はそういう意味でとても気づくことが多い本です。私は語りすぎたようです。でも、それだけぜひ(子供向けに限らず)コンサートに関心ある人には手に取ってもらいたい本だとおもったのです。

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ここまでで、この本の紹介と感想は言い尽くせたと思いますが、ここからはやや違う方向へ踏み込んだことがらです(これも感想ですけどね)。

繰り返し述べてきたように、東京交響楽団の「こども定期演奏会」の試みは今まで知らなかったのが申し訳ない気分になるほど素晴らしいものですし、それを支えてきたのが子供の聴衆に対しても妥協せず丁寧に鑑賞のポイントやメッセージを伝えてきた指揮者大友直人氏の手腕に負うところが大きいのもこの本を読めば明らかです。それでも第1章の大友氏へのインタビューで

「私は単純に演奏家として、演奏しがいがあるかどうか、ということを選曲のひとつの基準にしています。現代音楽には興味深く、よくできている音楽も実はたくさんあります。しかし、この感動をどうしても伝えたいと思う音楽なのか、人の心を癒す音楽なのかなのか、人を勇気づける音楽なのかという基準で見ると、残念ながら、思いのほか心からとりあげたいと思う作品が少ない」

という発言を見てしまうと、こども定期演奏会のプログラムが幅広く選曲される一方で大友氏も認めるように無調系の作品や第2次大戦後の前衛の曲には踏み込まないことについては、今書かれ産まれている音楽こそ、今を表しているのだと思っている自分としては残念にも思ってしまうのです。(現代日本の作曲家特集のプログラムでも細川作品を除けば調性が明確なものが多いですし)

もう一つ、こども定期演奏会の台本を書き続けた有田栄氏は第5章の子供に伝えるための苦労の中で子供を特別視しないこと、子供の耳には偏見がないことを挙げておられますが、それでも実際に作られた演奏会の中では思わず指揮者がエルガーやマーラーの交響曲を紹介するときに「子供の演奏会でこのような曲が演奏されたことは今までにはない」「前代未聞」といった特別感を出してしまうところに(もちろん、そこにはプレミア感を子供に与える効果もあるでしょうが)やはりなにかクラシック音楽や曲目に特別さを意識し、させてしまうところがあるのだな、と感じさせられました。それはある意味、大人の鑑賞者においてもマーラーとか理解すると立派っぽいみたいな、曲目間の階層があるかのようなレベル分けにもつながってるのかもと思われ、そしてそれをなくしていくことができるかが、さらにこのような試みを前へ進める次の一歩だと思うのです。
(了)

本文はここまでです。
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