見出し画像

わかる、わかったつもり、わからないの間 数的感覚をスタートポイントに

最近、数学者岡潔氏のエッセイや講演が再刊されています。数学者としてきわめてユニークな業績を残した氏の数学的業績は素人にはわからないし、その解説がされることなんて滅多にないけれど、あのアナクロなまるで男女6歳にして席を同じうせずに近いくらいの古めかしい教育論やら、アメリカ嫌いやらのエッセイは立て続けに復刊されるって、なんか変な気分がします。
まぁ、エッセイの思想的な部分は一部の人は昨今の愛国主義や右傾化の一端だとかいうかもしれませんが、私が今回とりあげたいのは、数学者の数学者としての業績なんかは誰も期待せず、そのえらい業績を挙げたということを印籠としてのエッセイは読まれる、というのをスタートポイントにしたいわけです。

▶︎算数、数学と聞いただけでわからないことに分類される

考えてみれば、広中平祐氏もエッセイや教育論書いてるし、森毅氏もそうだし、、、数学者ってのは筆がある程度立てば、自分たちの仕事はどうせ理解されないからってんで、そういうところで文章を売るしかないのかなぁという侘しさ。。。
矢野健太郎、遠山啓両氏から秋山仁氏に至る数学啓蒙の努力も虚しいもの、みたいな気分になっちゃいますね。。。

まぁ、えらい業績を専門分野であげていれば、一般社会の話に対する意見でも傾聴することを言える、書けると思える、その大衆さの素朴さ、健全さこそ愛されるべきなのかもしれませんが、こと、数学者のような奇人変人でないと業績が挙げられなさそうな(偏見スロットル入ってますよ!)人たちのエッセイがまともかなんてのはけっこうあやういはずなのにねぇ。
そういや、ある数学者のエッセイには「日本人なら知らない人のない数学者小平邦彦」って平然と書いてあったし、まぁ、そのくらいずれてるからこそ数学者なんだし、そんな人たちの話なのにねぇ、、、ってやはり思う。

まぁ、それをおいといて、人々は数学者のエッセイは読めても、そこに数学的な要素は求めてないし、きっと入っていたら読まないに違いない。
算数、または、数学関わるとなったら、その瞬間にわからないものと、耳も目も頭も閉ざしてしまう人が多いのは悲しいことに現実だと思う。

なぜなんだろうねぇ。。。

そういえば、冗談めかした、それでいてまことしやかに言われることに、

「一般書籍に数式が1つ出て来れば、それで売り上げは半減する」

というのがあるそうです。。。

なんか10個も数式があれば売り上げ、なくなっちゃいそうですね。(って、こういうときに2の10乗って大体1000だから1000分の1とか思うかどうかも、実は算数感覚の有無の一つかもしれません。)

▶︎今度はマジックの話題を

最近、テレビで「ブレインダイブ」を売り文句に各局にでているマジシャン新井景視氏がいます。

そのネタの一つに、相手が思い浮かべて紙に書いた数字を当てる、というものがあります。このマジックの中心部分はありきたりなものですが、その神秘性をあげているのが、数字を当てるときのプロセスにあります。

次のような手順です。

0 相手に31以上の2桁の数字を紙に書いてもらいそれを強く念じてもらう

1 ホワイトボードに相手の頭の中に思い浮かべた数字を読み取ったと称しいくつも書き並べる

2 最終的にその中の数字の一つを言う。しかしそれは当たっていない

3 相手に思い浮かべた数字を言ってもらう

4 ホワイトボードに書かれていた数字、縦横4個ずつ計16個の数字の縦横斜めを足すと、相手の数字になっている

5 すごい!!

って、ものですが、この神秘性をもたせているところは、単に魔法陣にすぎないことはすぐにわかりますよね。

数字をいかに知るかの仕組みは別(わからなくても)にして、数字さえわかっていれば、次のように神秘性を演出してることは明らかです。

0 1から16までの数字で作られる魔法陣(とその回転系)を覚えておく

1 相手の思い浮かべた数字を知ったら、その数字から34(魔法陣の一辺、1から16までを足した数字の4分の1)を引いた数字を計算する

2 覚えている魔法陣の13から16の個所にその数字を足す

3 それらしく相手から数字を読み取ったように魔法陣を端から書いてみせる

これが神秘的に見えるかといわれると、えーーーって気分になりますが、感心しちゃう人が多い(まぁ、テレビの芸能人はとりあえず反応として、すごーーい!って顔をしなくてはならないでしょうから、内心どうかはわかりませんが)とするなら、それほどまでに、世の中には数的感覚はない、といえなくもない。

で、ここまでマジックの説明に一切数式を使わず、でも、魔法陣にいくつどこに加えるかという算数的な説明を書きましたが、それさえも読んでいて、うわぁわからん!と思ったとしたら、その人はそもそも算数的な話は脳みそが拒否するタイプってことになりそうです。

で、そうまで拒否反応が起きるのはどうしてなんでしょうね?

▶︎算数的な話だから拒否するの?

世間の相当割合の人が(どうやら国際的アンケートでも日本人は他の国に比べて)算数や数学を苦手でわからないもの、と思っているようです。それがどういう原因によるものかはわかりません(さらにいうと苦手というわりに、国際的なテストでは成績がよいから不思議)。

おそらく、数式やプログラム言語のように、日常言語と違うものはわからないもの、というきわめて単純なスイッチが働くのでしょう。横文字だってきっと同じことなんでしょうね。

それに対して日本語だと少々難しくても、読もうとするし、実は相当難解なものでも、知っている単語を頭の中でつなげ、場合によってそこで自分なりの解釈も無意識で継ぎ足してわかろうとするし、場合によってはわかったつもりになる、のも面白いところです。実際は、日本語で書いてあるからといって、読んでちゃんと理解できていることは相当低率かもしれない、とはみんな気づいてないのかもしれませんね。

すごく偏見を込めていうなら、上で書いたような簡単なマジックの説明も数字が出てきて嫌だ、という人が、じゃあ、通常の生活や議論の中で、論理的に振る舞えるかといったら無理なんじゃないか、という気がしてしまうのです。

その意味では、数学的な話も少し苦労すれば、実は通常言語なみには理解できる(逆にいえば、通常言語はそのくらいわからないもの)ようにも思えるのですが、その敷居を低くするにはどうすればよいのでしょうね??これには私も答えを持ってはいません。何かいい方法はないのかしら?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?