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今、音楽を聴くということ。 鈍感な私たちの耳?

最近の社会問題に、子供の声がうるさいからといった理由で保育園が建てられないという話があったりします。まぁ、実際は騒音だけでなく、安全性もあるでしょうが。
一方で、私たちは子供の声どころでなく、生活が騒音まみれです。
よくもまぁ、街中はあれだけいろんなアナウンスや宣伝やBGMが流れ、車が走っているなんて環境に順応できるものだと思います。人間すごい、、、または、鈍感!!w
こんな音環境は都会に限るでしょうが、音の量少ないにせよ、地方でもBGMやらどこでも音が流れている環境ってのはけっこうありそう。

で、こんな音まみれな中にいて、私たちは音楽を聴くことができる耳を持っているといえるんでしょうか?

▶︎小さな音の楽器を聴く

リュートやクラヴィコードのコンサートを聴いた人はとても少ないと思います。
リュートはある程度の広さまで響かせられるでしょうが、クラヴィコードはちょっと無理。100名程度で聴くのが限度。
でもこれらの楽器の大きな特徴は思ったよりはダイナミクスがあるということです。単に音量が小さいのではなく、その小ささの中の幅は大きい。

たとえば大音響のロックのダイナミクスの幅は思ったより狭い。つまり大きな音が主で小さいところが少ないから。その点で言うとこういうアコースティックな楽器の方が幅は広いといってもよいし、それを小ささの中で聴き取る耳がないと、その音楽は楽しめないといえる。
じゃあ、普段から音にまみれている私たちはそれを楽しめる耳を持っているんでしょうか?養うことはできるんでしょうか?

楽器に限らないかもしれません。それこそ日本庭園の水琴窟や鹿おどしの音なんてのもその微細なものを聴き取る作業でしょう。単にカッコンっていう衝撃音だけのものとか鹿おどしを思うのは違うと思うのです。
そう考えると、そういう耳を持てているかとても心許ない気がします。

▶︎サウンドスケープとサウンドエデュケーション

マリー・シェーファーの提唱した理論に「サウンドスケープ」ってのがありますね。まさに環境音に注目し、そこに普段聞き取っていないものをちゃんと聴き取り、それを聴き取る訓練(サウンドエデュケーション)もする。
おそらく普段から自然の豊かなところに住む人やそこを職業の種にする人(木こりや猟師や)は自然にそういう音に対する反応が敏感でしょうし、普段から聞き取れているでしょう。
で、都会に住む人であってもちゃんと耳をすませば、それこそ多様な音に気づくし、体内音にも気づく。
「4分33秒」なんて作品もある意味、そういう気づきを促す作品だったともいえる。

そうやって、自分の周りの音に注意すると、いかにたくさんの音が流れているのか気づかされるけれど、それに気づいても、その音量ゆえに、消されてしまっているものもいっぱいあるはずで、それはどんなに頑張っても聞こえないし、小さい音を聴ける耳になってもいかないと思うのです。自分のいる音環境に少し詳しくなっても。

▶︎大きな音に満足=繊細な差には鈍感?

社会学的に、歴史的な騒音の量の変化を調べた人がいるかはわかりませんが、おそらく19世紀末期あたりから都会では騒音が増えているのでしょう。それは馬車を始めとする交通機関の量、そして工業化などにともなう工場騒音を筆頭として。

一時期はその騒音さえ人間の進歩を象徴するものとして喜ばれてたのもたしか。「未来派」のルッソロが作った騒音楽器であるとか、モロソフの管弦楽作品「鉄工場」やプロコフィエフのバレエ音楽「鋼鉄の歩み」とか、まさにそうでしょう。
人間の巨大なものはいいことだ的な感覚はおそらく音楽の音量にも求められて、オーケストラの巨大化(まぁ、ベルリオーズのようなとんでもない時代に先走った先駆者もいるけど)が必要な作品も要求したし、その大きな音と響きに人は酔いしれたのでしょう。

でも、この大音響の要求というのは、実は社会全体もうるさくなったから、と考えられないでしょうか?
外もうるさいから、音楽もうるさくないと満足できないような耳になったという意味で。

マーラーの交響曲のようなものが数十年前からブームになる要素の一部は、私たちがそれほど社会の音量にさらされているから、音楽も代償行為としてそのくらいないと満足しないだけなんじゃないでしょうか?そこに様々な音楽の歴史的意味や多彩な表現の意味を付加しても。(いや、マーラーの作品自体の質を貶したいのではないですよ)

▶︎音楽を聴けるような耳ではない?

社会騒音がうるさい、BGMがうるさいとかいいつつ、みんながヘッドホンやイヤホンをして、自分の好みの音を聞いているという状況は、耳にとっては単にうるさいものを耳元で聴かされることに変わりはないんじゃないでしょうか?
そんな環境で私たちの耳は音楽を聴ける耳なんでしょうか?
周りはうるさいのでいつも遮音性が高く、わずかに必要な音が聞こえる耳栓をしている、というのならまだわかりますが。

こんな耳で、コンサートホールなどでは静寂の中で音楽を聴いても全く音楽を聴ける状況に耳がリセットされてなくて、実はちゃんと音楽なんて聴けてないんじゃないか、という恐怖感があるんですよね。実は聴き取れるものを大量に逃してるんじゃないかって。。。
古楽とか聞いていても、細かなものが全部耳からすり抜けてないか、とか思うんですよね。。。実際どうなんだろう。

で、これはもっと怖いのは、じゃあ演奏する人たちどうなんだろう?ってことです。もちろん教育を受けて音感や技術高くとも、普段の生活はみんな似たようなものでしょ?普段から音をあまり聞かないようにしてるわけではないだろうし、逆に練習もするし、外にも行くしと音にはよけいまみれてそう。そういう人たちにとって、音楽をちゃんと演奏する耳って本当に育っているんだろうか?普段から養えているんだろうか?ちょっと考えてみると怖いんですよ。(こんなことを言ったら演奏者の方々には失礼でしょうけどね)

もし、1週間とか1ヶ月とか、最低限の音しか聞かず、音楽のライブを聴きにいったら、どのくらい違うんだろうか、と思うんですよ。(その程度で今更変わらないのかもしれないし、元々、私が気にしていることがナンセンスなことなのかもしれないけど)

誰かやってみません?

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