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音楽や美術にはお金をかけた経験が大事

たしか、伊福部昭氏の、そして正確には覚えていないのだけれど、こういう内容の言葉がある、、、、

今の学生は、オーケストラの曲を作りたがらない。小さな編成で洒落た曲を作りたがって、オーケストラの音は必要ないという。しかし、オーケストラというコントロールするのが大変で、楽譜にみっちり音を書く経験は大事です。その経験をしたうえで、書ける音楽がある。

だいたいこんな感じの内容だったと思う。
これはとても示唆に富む言葉だ。

日本には20〜30年前にバブル時代を経験している。その当時のいろいろなバブリーな社会のエピソードというのは今でも面白おかしく、一部は呆れつつ語られるわけだけれど、その頃は企業メセナなどでのいろんなイベントへのお金の投下もなかなかすごかったのもたしか。もちろんバブリーな勢いに乗って、バカバカしい金の使い方をしているものもあったわけだけれど。
それ以前にも1960年台後半からの高度経済成長、そして1970年の大阪万国博覧会といったつながりが、相当量のコストを文化に投下できるようになるきっかけだったといえるだろう(それが少々成り上り的感覚だったにせよ)。

▶︎でかいリソースを扱う体験の大事さ

で、冒頭の伊福部氏の言葉につながると思うのだが、日本は経済的繁栄で少々成り上り感があったにせよ、バブル時代のおかげで、十分にお金やリソースを使える経験をした芸術家はけっこういるんじゃないかと思う。場合によっては、手にあまるほどのリソースを扱わされて、結果としては使いこなせなかった、成果としてはいまいちなものになった、ということもあったかもしれないけれど、そういう体験をしているかどうかが大事、ということを冒頭の言葉は言ってるのだろう。体験をしてどのくらいのことが自分にはできるか、場合によっては自分には合ってないことさえも、知ってるかどうかが問題というか。

もちろん、小さく細密なもの(それはどんな芸術であっても)を作るのに必要な技術というのは別に存在するだろうけど、でかい方は、小さいものよりも個人でどうこうできない面(その最大な点がコストだろう)があるから、それは体験の場があるときに経験しておくかどうかになるし、そのチャンスを意図的に逃したとしたらそれはもったいないということになる。

▶︎「わびさび」にもつながる感覚

これと同様の考え方は、たとえば茶道にもある。
「わびさび」ってあるけれど、あれは「不足の美」を理解することといえるだろう(代表的な定家の歌『見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮』を思い浮かべるまでもなく)。そして、その「不足」を知るためには「満足」を知らないとならないわけで、そのためには、名物を所持したり拝見したりという稽古が必要になるわけだ。
これは、鑑賞の技術とは少し異なる。たとえば、骨董品の目利きになるのには良いものをたくさん見ること、とか、音楽の鑑賞もよい演奏を聴くことでわかるようになる、といったこと とは。だって、これらは最上でゴージャスなものは判別できるようになっても、新たな美を見つけ出す能力がそれで身についているかというと違うから。
その点で「わびさび」というのは「不足」に別の価値を見出す点では思想でありつつ、不足した状況で最高の場を作るという意味では創造の技法でもある

▶︎贅沢をすることで、足らない時に別の美を作れる

「わびさび」にみられるこの技法は音楽や美術の創造にも適用できるはず、という消極的な意味にとどまらず、最上の贅沢を経験していること(その大変さ、まさに制御するためのパワーを体験していること)が、より小さな環境でも新たな美を作れる、または作る中での解決策を見いだせる、という積極的な強みがあるはずだ。

冒頭の言葉で小さな編成でまとまったものだけを作れるので満足、オーケストラなんて面倒で不要、みたいなのは、たとえば、音楽はギター一本で表現できるぜ!って強がるのとも似ている。もちろん、それは真だろうが、それを真にするのは、大量の音を扱うような経験をしたからこそ、そこからいかにエッセンスを汲み取ってギター一本の環境であってもこういうことができる、に還元できるかがわかった時ということだ。だから、元々お金ないし、友達もないし、機材もそんなにないしという単に貧乏な環境でなんとかしています、という状況は芸術的にはあまりよくないことになる。

たしかに、オーケストラ曲を作っても演奏しようと思ったらお金かかるし、作っても演奏されないかもしれないしなんだけど、その機会も実践もしてないと実は損をしてるということ。もちろん個人でコストやリソースの問題は解決できないことの方が多いので、結局は、そのような贅沢な場やチャンスを社会がどれだけ提供できるかが、最終的には優れた作曲家を多く作り出すということだ。その意味で、国や自治体や企業が芸術の創造の場のためにコストを落とすことはとても大事なんだよね。

▶︎こじんまりとまとまった芸術世界にならないために

お金なんて大してなくても、ある程度の環境だけでも芸術はできるんだよ、なんていわれたくないし、それはまずいことだ、というプレゼンテーションはもっとなされて、みんなの共通認識になってほしいと思う。まぁ、結局はその余裕がないと芸術は育たない、という身も蓋もないことを言ってるにすぎないのだけど、一方で作る側にもその贅沢さを体験する積極的な意識が必要だという話でもある。そうじゃないと、そういう場を用意して!って言わないものね。

そう考えてみると、日本が不景気になって20年ほどなるけど、そういう贅沢さを体験できている若い芸術家(音楽に限らずね)ってどのくらいいるのだろう。この程度の環境しかないしね、というところに閉じこもってる世代がすでに形成されていて、そういう贅沢さの必要さも認識せず、手持ちのものだけでなんとかするわ、って人々ばかりが増えて、こじんまりとちょっと目先の変わった芸術作品を作ることで、それを新しさと思うような人々が増えちゃうとまずいよねぇ、と思う。

もっと贅沢させてよ!ってみんなで声をあげようよ!

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