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作曲家と演奏家の関係性とはなんだろう

作曲者はどこまで守られているのか(編曲や楽曲改変とはなにか)、そして演奏者はどこまで自由に許可なくふるまえるのか。

●話の発端

すっごくとっちらかった多様な話を書いてみたい。(なので読む人は覚悟して読んでくださいw)

本村さんが提起した話題はとてもいろんなことを考えさせてくれる問題でとても面白い。私と本村さんでは考えは違うけど、でもできたらいいなと思っていることは一緒なのでなおさら。

私も何年も前からSNSで現代日本の合唱曲(たとえば多田武彦氏の作品とか)をリコーダーアンサンブルで演奏したら(演奏効果としてもトレーニングとしても)とてもいいのぢゃないか、という話題を書いてきた。さらに、現代の有名な作曲家の小品をリコーダーアンサンブルや古楽器アンサンブルに編曲して演奏する試みも面白そう、という話を書いてきた(たとえば、不特定楽器での演奏を前提としてる近藤譲「スタンディング」やシュトックハウゼン「黄道十二宮」などは当然として、クセナキスやリゲティなどの作品でも編曲できそうだよねと思うものはある)。
で、もちろん音を付け加えなくても音をオクターブいじったりするのでこれはちゃんと発表や演奏するなら許可が必要なのかなと思ってきた。
で、今回の問題は、その自由(許可を経ずに)はどこまであるのかということになる。

●歴史的な作曲家の位置

歴史的な経緯を(それもクラシック音楽の範囲で)考えると、もともと楽曲を何で演奏するかなんてことはだれも頓着してなかったのはたしかである。そこにある楽器で都合を合わせていた。それがだんだん17世紀くらいから演奏する楽曲の様式ができてくると同時にどういう楽器で演奏するということを指定するようになってきた(この段階では複数種類の楽器を列挙したり、他の楽器を使ってもよいよという書き方だったりする)。19世紀以降それこそベートーヴェン以降の作曲家が宮廷といった支配から自立しはじめるころに、ほぼ楽曲の楽器指定は当たり前になった。そしてちゃんと演奏する場ではその指定された形がまがりなりにも守られる方向になる。一方で録音機器がなかった当時は有名な歌や楽曲をみんなが知る手段として編曲が重要だったので、大量の有名楽曲の編曲(主にピアノまたはピアノ+独奏楽器)楽譜が大量生産され、家庭やサロンで楽しまれるようにもなる。
歴史的にはヴェルディやワーグナーが代表とされるけど、この編曲の氾濫が適切に作曲者に収入をもたらさないことが著作権という概念を育てたといえる。
一方で編曲という形でなく、ヴィルトゥーゾが有名曲のメロディでパラフレーズしたり、ひたすら技術をみせびらかすショーピースを作ったり、演奏家が勝手に自分の都合に合わせて楽曲を書き換えたり(チャイコフスキーのロココヴァリエーションとか)、楽曲を組み合わせちゃったり(グリュッツマッヒャーのCPEバッハやボッケリーニとか)したのもきっと著作権がアバウトだったり、まさに作曲家と演奏家の関係性、どちらが優位かといった歴史的経緯に関わるのでしょう。

●作曲者の権利が強くなった理由

演奏者がある程度好き放題できていたのが、作曲家の権利が拡大した理由の一つは上に書いたような適切な利益配分を行うため、勝手に編曲出版、演奏されてしまうことを防ぐためだったのは明らかでしょうが、他の要素としては楽曲の複雑化があるでしょう。音楽の要素がメロディとハーモニーだけなら、楽器間の移動はそれほど困難ではないでしょうが、そこに楽器自体の響きの組み合わせが重要な要素とされたなら、楽器の移動は困難、または作曲家は嫌うことになるでしょう。
もう一つの要素は作曲家と演奏家の分離だったんぢゃないでしょうか。作曲家が自作を演奏、または差配する分には何の問題もなかったのが、どこまで離れていけるかと権利のせめぎあいとして(演奏家としては面倒な)のルール形成だったんでしょう。

●編曲の法律上の定義

で、まぁ今は著作権法やらいろいろできていて、じゃあどこまで何が許されているのか、私自身も雰囲気でしかわかっっていなかった(というか、わかった気分でいた)わけで、今回いろんな情報で教えてもらった中で一番そうだったんか!と思ったのは「編曲の定義」でした。
私は少しでも音や楽器を変えることが編曲に含まれると思っていたのですが、そうではないんですね。「編曲とは元の楽曲に何らかの創作性を加えること」なので、単に機械的に移調したとか、それに応じた楽器変更は本来の編曲の定義には含まれないわけです。(今回一番びっくりしたのは、加戸守行「著作権法逐条解説」にはピアノの楽曲をヴァイオリン用に書き換えるは編曲にあたらないとされているという話でした。少くとも加戸氏の解釈では音を大きく変えることなく楽器を移動することは編曲ではないわけです)

ここで問題になるのは当然「創作性を加える」ってのはどこからかなのは間違いないわけで、このような法律解釈でありがちなグレーなところでもありましょう。少くともある楽曲に対旋律を加えたり、対位法的にいろいろやったらそれは編曲でしょうが、オクターブをひたすら重ねるのは編曲でないといえそうです。(ただ重ねる場所を配慮したら編曲かもしれません)
この延長線上として定義では含まれなそうですが、音はいじらなくても楽器を変える、編成を変えるは微妙な感覚を呼ぶ(そしてそれは上で述べたように楽曲の重要要素として響きが含まれるならなおさら)のでしょう。
ちなみに編曲では、演奏者の技量などによって意図的でなく音を外すなどは編曲にあたらないことになってるので、下手な人は安心しましょう。

●もう一つのハードル、同一性保持権

でも、編曲としては問題なくとももう一つハードルはあります。著作者人格権の同一性保持権です。つまりは著作権者が不快である自分の意図にそぐわないと思ったときに文句をいえるわけですね。
ただ、この同一性保持権にもやっかいな点があります、著作権関連の基本となっているベルヌ条約では「著作権者の声望を損なう」ようなことを防ぐのが同一性保持権ですが、日本の法律だとそこまで強くなく単に著作権者の意図にそぐわないレベルもOKみたいです。これはけっこう揉めた時にどっちに転ぶか難しいところかもしれません。

さて、一番最初の合唱曲を音は変えずにリコーダーアンサンブルで演奏する、は結局どうなのでしょう。機械的に音を移し替えた点では編曲に当たらないことになりますが、問題は歌詞がついてないことです。
ここで派生しそうな例として考えられるのは、じゃあ合唱曲(歌詞あり)を全く同じ状態でヴォカリーズ(歌詞でなくアーとかオーとか)で歌ったらそれは編曲になるのかということもありそうです。
他にもたとえば有名なJPOPのメロディを単声で楽器演奏したら編曲になるのかというのもありそうです。
どうなるんでしょうね?歌詞があることの重要性を判断する判例があるのかどうか。そしてメロディが一般化していることの評価ってのがあるのかどうか。(時と場合で判断がわかれそうですし、少しリスキーかもしれませんね)

●一応の私なりの結論

で、すごく説得力のない結論、というか私の判断は、思ったよりも編曲とされない範囲は広かったので、音を大きく変える、加えるとかせず、元の和声を保つようなものである限りは実は勝手にやってもかまわない(もちろん著作権使用料は払う)のではないか。ただ上にあげたグレーになりそうなところにかかりそうならやはり一声かけた方がいいように思うよね、という感覚が、みんながけっこう律儀に声をかけた方がよいと考え、実際につながってるのではないか、というところです。

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●余談その1(下手な演奏について)

さて、編曲の議論の一つとしては演奏家が自分の解釈と技量によって書かれた楽譜から逸脱するのは大丈夫なのかってことになるでしょう。上にも書いたように技量による音がはずすのは編曲には当たりません。
たとえば、有名なポーツマスシンフォニアのように、楽器演奏できない人々が有名曲を無理やり演奏したのは、とりあえず編曲にはならないのでしょう。

これに関連した著作権がらみジョークというのがあるらしく、カラオケで歌うAさんは法律違反だけどBさんは違反じゃないよね、というのがあるそうです。Aさんは少し音痴で音をちょっとはずすのでそれは無断改変なので違反、Bさんは音痴すぎて元のメロディーがなにかわからないので違反ぢゃない、というものです。(もちろんこれは冗談なのでそういうことにはなりませんw
ただ、ポーツマスシンフォニアの場合でも、著作者人格権としては原曲を侮辱しているという意味で同一性保持権を侵害しているという文句は可能です。

●余談その2(楽曲の解釈範囲について)

じゃあ技量として音をはずすのは仕方ないし許容されている、そして余計な音も意図的に加えない、でも楽譜に書かれているテンポや強弱を大きく逸脱する演奏はどうなるんでしょう?
これはきっと法律では解釈しきれないでしょう。
以前、武満徹「ノヴェンバー・ステップス」の演奏でネプチューン・海山氏が尺八パートの独奏者として、図形的そして奏者が解釈する部分において、それでも指定範囲にはないと思われる声を出すなどの演奏を行ったときに、評判が散々で遺族も憤慨したらしいのですが、さぁ、これはどうなるんでしょう。おそらく編曲と判断するのは難しいし、同一性保持権について文句はいえそうですが、それも微妙そうです。つまりその程度には演奏者の解釈範囲は広いといえなくもありません。

そういえば、あるヴァイオリン奏者がロシアに留学しているときに「日本人はどうしてそんなに楽譜通り演奏するのか。もっとイマジネーション豊かに表現しないと音楽の意味がない」とよくいわれたそうです。こうなると楽譜通り演奏しないことの意味が、今まで述べてきたこととの境界領域であり、芸術を法律で解釈しようとする無茶さはかなさでもあるでしょう。

これと類することとしては、あるコンクールに出場した方が大昔に問題提起していたことで、コンクールの現代曲の新曲課題で、その曲の演奏賞をもらった人が、楽譜で強弱をあちこち無視し、ノンヴィブラートと書かれているところでヴィブラートをバリバリかけていたのに、それでコンクール入賞と演奏賞とはなにごとだろう!という嘆き節だったわけですが、こうなると話はなおさらやっかいです。コンクールでは楽譜通り(それも新曲)演奏することが大事なのか、それを踏み越えた音楽を評価すべきなのか、もしくはそれを審査員は新曲で評価できるのか、なにを評価してるのかという問題にも行き着いてしまうわけです。
あぁ、やっぱり芸術はむつかしいですねww

●余談その3(そもそもみんなちゃんと演奏してない)

ラヴェルの「ボレロ」は超有名曲ですが、あの曲では今ではめったにみかけないソプラニーノサキソフォンが指定されている箇所があります。そして当然今はその楽器がほとんどないのでソプラノサキソフォンで演奏されています。
バルトークのピアノ協奏曲などではもともとベーゼンドルファーインペリアルという今の88鍵のピアノより音域が広いピアノのために書かれた曲もあります。でもみんな普通のピアノで演奏します。
楽曲で指定している楽器において、間に合わないのでとりあえず類似の楽器に置き換えて演奏する(場合によってはその方が奏者にとっても演奏しやすい)ことは山ほどあるでしょう。
つまりは、上記の編曲において音を変えない限りは編曲にあたらない、っていうのは、こうやって実はみんながやってることなんですよね、、、そしてそれは許されるわけです。

●余談その4(教育現場の微妙な事例)

教育現場ではことさら楽器も人数もそろうわけではないし、音楽の授業やクラブ活動でちょっと演奏するのに、ちゃんと原曲通りといかないことの方が多いのは当然です。そこで学校での音楽利用では、教育の現場で使っている限りにおいては編曲して演奏する自由が認められています。正確には著作権法上は楽曲の楽譜を編曲などして複製利用する有形複製は認められていますが、演奏するという無形複製については含まれません。ただ教育の現場で、教室内などで生徒という限られた人たちの間で演奏(無形複製)する分には公でなくさらに収益も発生しないということで容認されています(ただこれでも同一性保持権については文句をいえる可能性はあります)。
ところが、これが一歩教育の現場を離れて、たとえば文化祭で演奏する、コンクールで演奏するだとダメなんですよ、、、著作権法は収益の発生しない演奏での演奏をみとめていても、そこでは編曲、翻案することは許していないためです(上記の教室内が容認されるのは公でないことが大きいわけです)。
聴衆が不特定多数になると突然許されないというのはちょっと残念なところですよね。
もうちょっと融通があってもよさそうな気がしないでもありません。

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いやぁ、こうやって調べてみると、自分がこうだと思っていたことと違うことも多く、そしてそうかそのくらい自由があるのならトライできる余地もあるのかもと思わせる部分もけっこうありました。
そして、その意味では著作権がかかっている音楽であっても、最終的にちゃんと著作権使用料が作曲者に払われていくのなら、編曲にふみこまない範囲で演奏する機会を増やす場ってのは可能なのかもって話でした。

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