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蜷川幸雄氏の功績

なんかすごく偉大な演出家が(まぁ、しばらく体調を悪くされていたことはわかっていたにせよ、でも、それを物ともせずに精力的に演出活動し続けていたわけですから、それが)突然亡くなったという感じで、蜷川幸雄氏の訃報にはびっくりしました。そしてまさしく一つの時代の終わりという感じ。

私自身は、それほど観劇に熱心ではありません。多分片手以上両手未満程度しか蜷川幸雄氏の演出作品を見てませんし、それも80年代後半から90年代前半に固まってます。
というか、当時、小劇場ブームの中で、小劇場中心にけっこう見てた時期があり、そのついでにグローブ座とかでの蜷川幸雄演出作品も見たという程度です。(だから、私にとっては、演劇は、夢の遊眠社、劇団三○○、第三舞台、SCOTなどの方が親しんでいる)

あとは、蜷川幸雄氏といえば、たまに古いテレビ時代劇の再放送、たとえば初期の水戸黄門や銭形平次なんかに出演している蜷川幸雄氏の若い演技姿を見ては、下手やなぁ、、、と思うってのがあったり。。。ほんと、上手でない。演出家になって正解だったのだと思う。

で、そんな蜷川幸雄氏が、(もちろん年代的に私は実見してませんが)「NINAGAWA・マクベス」あたりからすごい有名になり、シェイクスピアとギリシャ悲劇作品で国際的にも評価され、気づけば、文化功労者、そして文化勲章まで受賞することになろうとは。そしてそうやって最前線を突っ走ったまま80歳で鬼籍に入られたわけで、テレビの情報番組での追悼も、まさにそうやって国際的に有名なな「世界のニナガワ」として称揚するわけですね。

それにしてもなんで「世界のニナガワ」ってカタカナなんですかね。小澤征爾氏だって「世界のオザワ」だし。カタカナにすることにどういう意味があるのやら。カタカナにしたからって外国人読めないのに。。。。NINAGAWAとかOZAWAならわかるけど。たしかに「世界のYAZAWA」だけど、でも矢沢永吉は世界的に有名ってわけではないぞ!!
この不思議なカタカナ表記に疑問も持たず、新聞とかがでっかいフォントで書いているのをみると、こういうところにもメディアの不感症ってあるんだろうなぁ、とか余計なことを思ったりもしたのです。
閑話休題。。。

で、世界的に有名で、シェイクスピアの本場でも評価されて、文化勲章ももらっている演出家となると、その功績はそうやって「世界の」なところにフォーカス当たってしまうのだけれど、私の中では、蜷川氏の功績はもちろんそこにもあるけれど、もっと初期の根っこの部分にもあることを、もっと報道してもいいんじゃないかという気がするのです。

それは、

前衛演劇側から商業演劇に進出し大成功した

というこの一点だと思うのです。
俳優として行き詰まり、しかし所属しているところでは演出ができる目がなかったから、十数人の劇団員とともに退団して、「現代人劇場」を設立して、戯曲家の清水邦夫氏とともに演出を開始した1969年から、そこにも創造的な前進を感じられなくなり、劇団を解散し、自分のアパートの表札に「蜷川天才」と掲げていたのを止め、蟹江敬三、石橋蓮司、清水邦夫との4人で1972年に立ち上げた「櫻社」、そして東宝演劇部から日生劇場でのシェイクスピア「ロメオとジュリエット」の演出依頼が舞い込み商業演劇に踏み出す1974年、というこの5年間に渡るホップ・ステップ・ジャンプが、蜷川氏自身の飛躍であったと同時に、日本の演劇史において、大きな転換点を迎えさせた一大事だったのだと思うのです。

当時すでに、つかこうへい氏や寺山修司氏という前衛演劇側ですごく活動的かつ評価される人々が同時期にいたにもかかわらず、つかこうへい氏は小劇場から離れず、寺山修司氏は天井桟敷から市街劇という大きな舞台に移行しても商業演劇には立ち入らなかったことを思えば、まぁいえば、クラシック音楽の有名演奏家がポップス系でも武道館とかでコンサートしちゃうよ的な行為である、商業演劇へ踏み込むことはタブーというか、金に身を売った的な感覚が強かったのは間違いありません。
蜷川氏が「ロメオとジュリエット」の演出を引き受けたことで櫻社は解散することになったのも、そういう認識の対立があったからでしょう。

それでも、1974年から1980年にかけて、市川染五郎氏を主演とした「ロメオとジュリエット」「リア王」「オイディプス王」、そして、平幹二朗氏を主演とした「王女メディア」「ハムレット」「近松心中物語」「NINAGAWA・マクベス」と並べてみれば、この結果が、前衛的な表現が商業演劇と融合することの新たなフェーズを生み、それがこの後の野田秀樹氏(だいたい20年世代として違うわけですね)などの小劇場出身者の商業演劇への活躍にもつながったのは間違いありません。(「ロメオとジュリエット」のオープニングは、ブリューゲルの絵画とバフチンの「フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化」に想を得て作られた舞台演出だったといいます。いかに勉強家で、後のシェイクスピアへの日本風の導入に限らず、いかに冒険的な演出家だったかわかります)

そう思えば、

今から40年ほど前に日本の演劇を大きく転換させたことこそ、蜷川幸雄氏の最大の功績

なんじゃないかと思うのです。

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