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役割語と吹き替えでの差別の問題、そして吹き替えの罠

テレビの情報番組、海外観光地紹介番組、日本人が世界の辺境に住んでいるのを訪ねに行く番組、オカルト系で現地取材とか言ってる番組、ほんと、テレビを見てると海外ロケをしてることは多く、その時にその土地の人から情報やらコメントやらわ証言やらいろいろ聞いてるのを聞かされてますよ。
で、ふと、そういう時の吹き替えを聞いていて思ったことを書いてみます。

▶︎役割語とは

「役割語」という言葉をご存知でしょうか?
簡単に言えば、キャラを言葉遣いで示すような言葉です。
「〜じゃ」と博士がしゃべったり、「〜ざます」って金持ち奥様がしゃべったり、「ーあるよ」と謎の中国人がしゃべったりする、あれです。

じゃぁ、現実的にこんな言葉遣いで喋っている博士、金持ち奥様、謎の中国人がいるかというと、そんなことないですよね。でも、私たちはちゃんとそれを記号として受けとっている不思議。漫画や小説、テレビなどからいつのまにか、学んでいる面白い記号なんですよ。

で、これは、吹き替えという音声の場合にも存在して、役割語の場合よりも差別の問題を含んでいるのではないかと思うのです。

▶︎吹き替えにおける役割語(っぽいもの)

ここで問題にしたいのは、別に海外アニメとかでキャラクターを吹き替える時に、文章における役割語のように吹き替えの言葉遣いを構成するといった話ではありません。
世の中の、さまざまな海外ロケなんかで、海外の一般人のコメントや口コミみないなものを紹介している時に、吹き替えにつけられている言葉遣いについてです。

おばあさんがインタビューに答えていたら、なんだかすっごくしわがれたおばあさんっぽい声をあてていることってありませんか?
ある程度、田舎らしい土地の人だったら、なんだか喋り方が田舎者っぽい(ここが役割語の音声版)吹き替えになっていませんか?
世界の辺境の住民の人の吹き替えのたどたどしい日本語の吹き替えになっていることはありませんか?

これって、正しいイメージの伝え方なんでしょうか?過剰表現で、実際はとても差別的なことを平気でやっているといえないでしょうか?
アニメなんかだと、それは想定されたキャラクタが存在した上でのことだから(いや、それでさえ、しばしばステレオタイプで差別的になってることが問題になります)まだしも、リアルな人間を表現し、日本語に置き換える時にそれっていいんでしょうかね?

声質をわざわざ年寄りくさくする、口ぶりを田舎者っぽくする、辺境だと言葉をたどたどしくする、どれも実際に目の前でやったら明らかに差別として糾弾される行為ではないでしょうか?
どうして、これは当たり前なんでしょう?
メディアはこれをリアリティのためにやっていると言い訳できるのでしょうか?
もちろん、どんな吹き替えもすべてアナウンサーが話しているようなのになったらつまらないでしょうし、声優さんも仕事のしがいがないかもしれませんが、でも、少し考えてみていいのではと思うのです。

政治家なら、吹き替えも堂々とした話し方にする。そうですね、今なら大統領候補のトランプ氏なら、やや乱暴そうで言いたい放題感強めな話し方にしてみるとか。全部イメージ操作にもつながってるんじゃないでしょうか?

ただ、よく見ていると、有名人や大事なメッセージは吹き替えよりも字幕にすることが多く、情報の重要性が低く無名者のコメントほど吹き替えにしているように思われます。つまりここにも見えない差別というか区別がありそう

ほんとにこんなことでいいんですか?
私たちはそうやってイメージ操作されまくってるんですよ。

このように、吹き替えについて考えていくと、このような差別化以外にも、けっこう罠のようなものがあることに気づきます。それについても少し触れておきましょう。

▶︎吹き替えの罠(その1)正確性

吹き替えでけっこう見逃されて、問題が起きたときに気づくのが「正確性」かもしれません。以前、あるテレビ局が本人が話しているのと違うことを吹き替えしていて問題になりましたが、でもあれだって、元音声が聞こえたから違うことがわかったわけで、元音声がはっきり聞こえなければ気づかないですよね。

よく、バラエティや海外情報番組で、海外ロケで現地の人から情報を聞く、みたいなので、上で述べたような役割語的な意味合いを含めて吹き替えがついていることがありますが、そもそも内容が正しいのでしょうかね?
現地の言語をちゃんと翻訳してあてているかなんて、私たちには全くわからないですよね。なんか適当なインタビューして、吹き替えだけは都合のよい日本語をあてている、なんてことはないんでしょうか?(元音声は大抵、ほとんど聞き取れないレベルになってるし)
絶対そんなことはない、またはほんとはそのくらいのズルは日常茶飯事とか、どうやったら確かめられるでしょう?
なんか、気になって眠れなくなりそう。

▶︎吹き替えの罠(その2)言語の平板化

これは上の「正確さ」と似ているけれど、少し違った視点での見方での罠です。
以前にも一度別の記事で話題にしたのですが、日本人は外国語(特に英語)ができたらすごい、みたいなコンプレックスがありがち。
で、海外のスポーツ選手や芸術家とかがインタビューを受けているのに英語で答えているのを聞いて、やはり海外で活躍する人たちは英語ができて当然ね、みたいな感覚に陥ります。でもここにも罠がないでしょうか?

英語ネイティブでない人がインタビューに答えている、その英語はどの程度正確で流暢なのか?実は、吹き替え(字幕でもいいですが)でごまかされてません?
私たちは、ちゃんとした標準語に変換されたのを見聞きしてしまうと、元々の発話も正確なんじゃないかと思ってしまいますが、けっこうひどい英語、場合によっては、翻訳するのが困るほどのことだってあるんじゃないでしょうか。いや、そして実際にあります。。。

特に英語ネイティブでないスポーツ選手が英語で答えている場合、相当文法ひどいとか、変とか多いんですよ。ある程度、英語がわかれば、この程度の英語でも堂々とインタビューに答えてるんだよねぇ、と、日本人の英語完璧症コンプレックスから離れられるんじゃないかと思うほど。
英語学習者にはこの点をもっと伝えてもよいと思いますよw
その点から見ても、日本人で英語で受け答えできる人は、結構ちゃんと話そうとしてる(たどたどしかったり、不正確であっても)人ばかりなのが、やっぱり日本人やなあと思うのですが。

こんな風に吹き替えや字幕がとにかく標準語だからこそ、みんなちゃんと喋ってると錯覚する罠もあるんぢゃないでしょうか。(もっと言うなら英語ネイティブでも相当訛ってる人はいるわけで、それをそのまま翻訳したら面白かろうと思ったりもするw

役割語に端を発して、言葉遣いや声質などさまざまなものから、私たちはキャラクターを想像するわけですが、イメージづけられるからこそ、知らないうちに差別的な部分にも触れてしまっていることや錯覚していることが多いんだ、ってことをもっと自覚してもいいんじゃないかと思うのですよ。

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