怪物はささやく 感想



うつらうつらしながら見ていたので見落としているところ、勘違いしているところがあるかもしれない。

母親が難病で死の淵にいるコナーという男の子が主人公。問題は母親のことだけではなく、学校ではいじめられているし、父親は海外でこさえた別の家族といるし、祖母とは気が合わないしでかなり悲惨な状況。
ある日そんなコナーの前に怪物が現れる。怪物はコナーにこれから自分の語る3つの「真実の物語」を聞き、それを聞いた後で4つ目の物語、「お前の真実」をお前が語れと要求する。
それ以降、怪物は毎日(だったかな、ちょっとうろ覚え)コナーの前に現れ、コナーに一つずつ物語を聞かせる。その間にもコナーの母親の病状はどんどん悪くなっていき、怪物が3つ目の物語を語り終えた次の日、コナーが物語を語る番が来る頃には、ついにいよいよというところまで来てしまう。そしてコナーは怪物に「真実」を話せと言われ、「終わりにしたいと思ってた、自分は楽になりたかった。治らないと思ってみているのが辛かった」と心情を吐露する。その後コナーは母親の病室へ向かい、母親を「逝ってほしくない」と抱きしめる。母親はコナーを抱きしめ、コナーの後ろに見える怪物に微笑みかけて息絶える。

ざっくりしたあらすじは上のとおり。こうやって改めて書き出すと中々切ない話。
感想としては普通に面白いという感じ。なんかそんなにものすごい感動したという感じではなかった。これに関しては冒頭に書いたようにうつらうつらしながら見ていた感想なので自分にも大いに問題があったと思うが。
でも改めて思い出すと難解なところはあるもののストーリーはよかったし、演出もきれいな感じで素晴らしかったと思う。特に、怪物の語る物語のシーンは絵本のようなアニメーションでかなり好きだった。
ただ、明確に悪いところが一つあって、それは効果音と声のバランス。吹き替え版だけかもしれないけどこれはかなりひどくて、声が聞き取れないところが多々あり、だいぶ没入感がそがれた。特に最後の山場のシーンの声がゴウゴウいう風で聞き取りづらいのは致命的だったように思う。もし見るならば字幕版を強くお勧めする。

以下気になった点とか自分なりの解釈とか

・怪物の語る3つの物語の意味
一回見ただけでは怪物がコナーに語った3つの物語のそれぞれが示す意味をすっきり理解することは出来なかった。
なんとなく1つ目の物語は「人の持つ二面性」、2つ目は「信念とはなにか、それを貫くとはどういうことか」、3つ目は「周囲に自分の存在を認めさせるには」という感じなのかなと思ったが、そうなると怪物がコナーに4つ目の物語を話せと詰め寄るシーンで言っていた「なぜ人殺しの王子は民に慕われたのか、なぜアポトーシスは気難しいながらも正しくあり続けられたのか、なぜ透明人間は怪物を呼んだ後も無視され続けたのか考えろ」(うろ覚え)というような台詞がどうもしっくりこない。コナーが自分の中にあった自分の真実、「母親に死んでほしい」という気持ちを認めるのには1つ目の物語だけで十分で、2つ目、3つ目はそこまで必要ないような気がする。
この台詞がなければ、怪物は何も4つめをコナーに語らせるためだけではなく、コナーの成長のためにこれらの物語を語ったのかな。と感じるのだけど。
もう一度見る機会があればそこのところをよく考えながら見てみたい。

・怪物は何者なのか、本当に存在したのか
基本的に怪物は現実の存在ではなくコナーの想像の産物と見ていいだろう。怪物はコナーにしか認識できないし、怪物の壊したものは怪物が去れば元通りになっている。ただ、この映画の中ではコナーのほかにもう一人、コナーの母親が怪物に関係する人物として描かれている。
そのことを示すシーンは3つ、まず物語の中盤で母親がコナーの小さいころに怪物を絵に描いてコナーに語って聞かせていたことが明らかになる。また、母親が死ぬシーンでは母親が怪物に目をやっているのがわかる。そしてラスト、母親の遺品のスケッチブックに怪物の語った3つの話のスケッチが描かれていることをコナーが発見するシーンがある。
これらのシーンから僕は、怪物は母親が創造してコナーに語って聞かせていた存在、あるいは実際に存在してコナーの母親とコナーの二人にだけ認識できる存在であるというふうに感じた。僕としては怪物が母親の病室に向かう際「動くのは最後」といっていたことからも、怪物は母親の創造した存在だという説を推したい。
そして、僕にはこの怪物はコナーに語って聞かせるために創られたものではなく、コナーの母親が自分のために創ったもののように思える。その理由はこの映画における「父親」の存在だ。コナーの父親は中盤に登場するものの、コナーに対していい影響を与えているとはいえない。この映画の中では怪物が父親よりも父親的な存在だった。人間のさまざまな側面を語る3つの物語を通じて、厳しくもやさしい態度でコナーを成長させたのは怪物であり父親ではない。(前述のとおり、僕はこの3つの物語の持つ意味を正確に理解しているわけではないから全く的外れかもしれないけど)そして、この映画には祖母が登場するものの祖父は登場しない(言及もなかったと思う、自信ないけど)。やや想像がいき過ぎかもしれないが、コナーの母親もまた、コナーと同じように父親が不在の環境で育ったのではないだろうかそして、コナーの聞いた3つの真実の物語を母親も同じように怪物から聞かされていた。「怪物」はコナーの母親にとっても父親的な存在だった。この映画においての「怪物」とは子供に必要な「父性」を表しているのではないだろうか。そう考えると最後の怪物と母親の目が合うシーンはなかなか切ない。
まあ、母親がコナーのために怪物と三つの物語を作っていて、コナーが母親がいなくなるっていうときに幼い時に聞いたその物語を思い出したという解釈でも最後の目の合うシーンは全然納得がいくし、ちょっと上で言ったのは考えすぎかもしれないけど、個人的には怪物はもともとは母親の友達だったっていう解釈の方が好み。ちゃんともう一回見たら普通に否定できる解釈かもしれないけど。

総じて、ちゃんと理解したとはいえないけど面白い映画だったと思う。ただ本当に吹き替え版はお勧めできない。字幕だったらもっと素直に感動してたかも。

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