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高下駄をはく心理

Twitterで、茂木健一郎先生が、何度か「年齢や性別と、考えの偏りとはまるっきり関係ない」(あっという間にツイートが流れてしまって、定かな表現ではない)というような発信をされていて、「なるほど。そのとおりだな。」と思いつつも、津田大介さんが手掛ける愛知トリエンナーレのRTから、ふわふわと浮かんできた世代感。男女感。その中にある考えの偏りのイメージが、自分の中に、わりとはっきりとあることを意識をした。

あえてジェンダーが着目されるような切り口で食い込んでくる芸術祭だが。
これはジェンダーを切り口に、津田さんが「高下駄」の例えをされたように「人が優位に立とうとする心理」そのものに着目した論争だと感じた。
何かしら理屈をつけて、自分が少しでも高い下駄を履いていたい。あるいは履いていると思い込んでいる。
そういったことだと解釈している。

もう、それは奴隷制や、ユダヤ人迫害の歴史と通ずるような、流行り病のようなものではなかろうか。かからない人もいれば、かかりやすい人もいて、潜伏してるけど症状が出てない人もいるのだろうと思う。

各言う私も、人とぶつかるときは、何かの下駄を履いていると思う。

今の私の場合、特に子育て(あるいは家族・親しい人に対して)が顕著で、自分がまるでこの世のすべてを知っているかのように威張り散らして、降伏させようとしてしまう瞬間がある。(それは大抵自分の安息と楽のため)これは、自分でも恐ろしい現象なのだが、子どもにとっては恐怖体験なのではないかと思う。それは四六時中ではなく潜伏している。

あと気をつけたいのは、金銭を払ってサービスを受けたときの高下駄。


人間が平穏と秩序を求めて生活していても、ひょんなことで下駄をはく機会を得た人が、その高揚感や様々な欲に刈られて高い下駄を脱げなくなり、下駄を履き続けた結果、いつしか脱ぐのが怖くなる。「これは脱げない」と言い出したところで、もう当初に下駄を履いた当時の因果が効を無くしていると、周りからは「何でなんだい、さぁ脱いでみろ!」と憤慨される。ということなのではないかと思う。

冒頭に「茂木先生」としたが、私も無節操な人間で、もろもろ考えると「茂木さん」でもいいんじゃないか。なんて思ったりもする。
友人が茂木先生の生徒であったことが大きな要因ではあるが、茂木先生の発信は、私に様々な気付きを与えてくれている。そして、メディアの呼び方による刷り込みもあると思う。
あれれ、しかし、よく考えれば直接師弟の関係だったわけでもないのに「先生」と呼ぶのもどうなのだろう。。。
メディアにのせて多くの発信をされているにしても、友人だって自分を導いてくれる存在だと考えた上で、再三の言葉も合わせると。

発信されている言葉たちに私を導く意図などなく、ただただ生きて感じた事を、同じ時代を生きる友(フラットな関係の人)に向けた言葉たちなのであれば、やはり「茂木さん」でもいいのかな?なんて行き着いてしまうのである。

ただ、坂本龍一さんが、何かの番組で、近所の子どもから「世界の坂本」が名前だと思われていたことを笑い話にされていたが、そういうこともある。
私は言葉を操るのは得意ではないので、しっくり来る呼び方で読んでおこうと思うと、結果的には「茂木先生」とお呼びしようと思います。



「教授」とか「先生」という言葉が敬称としてあるとしても、それが下駄になっては誤解を生むことを当然意識されていると思うので、私がどう呼ぼうと受け入れていただけると思う。

フラットに生きている人は、苦なく膝を折ることができ、相手が下駄を履いているかがよく見えると言うことかもしれない。
できる限りにおいて、私もそうありたいと思う。

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