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毎日noteを書くと、毎日死を意識するようになる

「〆切は小さな死です」

昔一緒にライティングの勉強をしていた同期の方の言葉だ。

毎日noteを書き続けて、1ヶ月以上が経過した。誰から強制された訳でもなく、辞めても誰にも迷惑がかかる訳でもないのに、こうして22時に過ぎにnoteの投稿画面とにらめっこしている。

ぶっちゃけ、もう1ヶ月の毎日noteチャレンジ終わったし、辞めても良くないかと思っているのだけど、辞めよっかなぁと思うたびに、「〆切は小さな死です」という言葉を思い出す。

人生の〆切をなんとなく意識したのは高校生の時だった。

僕の高校では中間テストが2回と期末テストが3回あって、一つのテストを乗り越えるたびに、次のテストのために怯える日々が始まる。テストという勉強の〆切を考えると、テストを乗り越えるたびに高校生活の〆切が近づいてきて、気づいたら高校生活が終わって、そしてまた気づいたらもう死に時なんだなと思ったことがある。高校生なのに暗過ぎだろと思ったが、あの時校舎から食堂に向かっている最中で友達にそんなことを話したことをくっきりと覚えている。

日々漫然と暮らしていると、ふと「そもそもなんで生きてんだっけ」と思う時がある。特に、夜布団に入った時。もしも僕がマーク・ザッカーバーグやイーロン・マスクだったら、そんなこと考えないのかもしれないが、残念ながら僕は彼らのようなでかい目標がない。

自分が死んだ時に、何が残るのか。何かが残ったとしてもそれはどれくらい残るのか。もし僕のことを覚えている人が全員死んだら、僕が生きていた証はどこにあるのか。そんなことをたまに考える。

その一方、特に死ぬ理由もないんだよなと思う。自殺したいと思ったことは無いし、まぁ生きてる方が得だろうと後ろ向きなポジティブを発揮する。

生きている意味を探してる暇あったら目の前のことを頑張れよって声もあるかもしれないけど、自分はそれでは100%で納得できなかった。

そんな日々の中、毎日noteチャレンジは始まった。

毎日noteを書くということは、その日が終わる〆切を意識することだ。必死にネタを探し、書く時間を捻出し、なんとかまとめあげる。その時間は、〆切という小さな死に追われている。

noteを書く〆切があると、何も無い一日の中に、何か意味を見出そうとする。それがどうでもいいくらい小さいことであっても、それだけで意味のある日に転じる。

小さな死を意識するということは、一日一日に自分が生きている意味を与えるということだ。「あー、今日も生きててよかった」とは、まぁ毎日はならないのだけど、「今日も死を乗り越えたぞ」と実感する。

多分、僕がnoteを書くのを辞めないのは、小さな死の積み重ねで生まれた大きな死に押しつぶされるのが嫌なのだからだろう。これまで続けてきた自分が死んでしまうことが、嫌だ。

毎日noteを書きつつ、意外と生きてる意味って後ろ向きだとしても簡単に見いだせるなと、思ったりしたのだ。


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