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情報という麻薬に溺れない

「この商品を買った人はこんな商品も買っています」

Amazonで商品を買ったことのある人なら、誰でも見たことがあるであろうこの文章。
何の疑問を抱くこともなく、オススメされる商品をいつもの様に見ていると、ふと1つの疑問が降りてきた。

− そういえばいつから自分は誰かの情報に頼って生きてきたのだろうか。

本を買うときはAmazonのレビューを参考にし、映画を見るときは名前をGoogleで調べ、家電を買うなら価格.comを見る。会社を選ぶ時から、飲み会の場所を選ぶときまで、僕らは自分で選択する前に、名前も顔もわからない「誰か」の情報をタバコの煙のように吸い込んでから、判断する。

評価が高ければ安心して買うけれど、低いと手を出すのをためらう。情報で頭がクラクラしてる中で、いつも選択している。

そう思うと、一体自分の意思で取捨選択をする機会はどれほどあるのだろうと思えてくる。

まだ家にインターネットが無かったころは、ほとんど自分の主観でものを選んでいた気がする。そこには自分の好き嫌いがはっきりあったし、参考になる情報は友達の口コミくらいだった。

誕生日やクリスマスの日は、なんどもなんどもおもちゃのパンフレットを行ったり来たりして、自分が欲しいものを自分の意思だけで吟味していた。だから、買ってもらったものにはとても満足できていたし、今みたいに「もしこれを買って時間とお金を無駄にしたらどうしよう」なんて考えも無かった。

いつの間にか、僕らは情報に麻薬の様に依存している。

1999年に書かれた「情報の文明学」という本の中で、今の時代は農業、工業に次ぐ、情報産業の時代だと述べられている。この本が書かれたのは、インターネットがまだ生まれる前だと言うのに、預言書のように今の世の中のことをピタリと当てている。

僕が情報の麻薬に溺れているのは、とりわけ本屋にいるときだ。

それは、本という情報の缶詰が大量に陳列されているからではなく、いつの間にか自分の意思だけで本を選ぶことができなくなっていると思うから。

僕はマーケティング・ライティングという技術に興味があり、文章だけで自分が読んだオススメの本をどれだけレコメンドできるかを日々考え、このnoteでも実践している。だが、紹介する本はどれも誰かが既にレコメンドしているものが多い。

誰も知らない(誰も知らないというのはありえないかもしれないが)、砂金のような、甲子園球児における金の卵のような、そんな一冊に出会って紹介したいな、というのが本音なのだけれど、なかなか誰かのオススメという誘惑から抜け出すことができない。ネット上に広がるレビューだけでなく、本の帯に書かれた有名人の推薦文や、「100万部突破!」などという煽り文句もそうだ。

情報は武器であり、物があふれる時代においては、信頼のできる情報をどれだけ沢山積んでいるかが価値になる。本当に価値のあるコンテンツは知らない間に多くの人に指示をされ、「好き」という情報を纏い、どんどんどんどん大きくなっていく。

物がありすぎる時代だからこそ、そうあるべきだと思うし、間違ったことだとは思わない。

だけど、暗闇の中で一筋の光を見つけたときのような、砂漠でオアシスに出会えたような、そんなセレンディピティをつかめたらと、ひっそりと思っている。

自分が興味の無い本を選んでしまうことは、時間的にもお金的にも勿体無いことだ。だけど、もし奇跡の一冊に出会えたのなら、そんな嬉しいことは無いだろう。そして、そんな一冊に出会うために必要なのは、一歩踏み出す、失敗を恐れない勇気なんじゃないかと思う。

他人の目線を気にしてばかりでは、好きなことは出来ないと言われるように、レビューの目を気にしないで、自分の意思で物事を選ぶ勇気が出たらいいなと、そう思う。

次に本屋に行くときは、携帯をそっとカバンの奥にしまって、偶然の出会いを楽しんでみよう。

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