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書くことは贈与だ

ラブレターでもない限り、自分の書いた文章が自分が届けたい人に届くなんて保証はない。それでも、自分の内なる思いを表現しようとする人があとを絶たないのはなぜだろう。

2月の間、noteを毎日書いてきた。スキが多くつくものもあれば、つかないものもあった。この1ヶ月間僕が書いたnoteを全部読んだ人はいないだろうと思うし、僕自身どんな順番で書いた覚えてない。なんなら、何を書いたのか何個かは忘れている。

それでもなぜ書き続けるのか。

人が文章を書くとき、それを手段とするか目的とするかの2つに別れる。

手段として使う場合は、編集に近い。誰かの思いを代わり伝えるための手段として文章が一番適しているから使う。動画や写真の方が良ければそっちを使えばいい。たまたまいくつかの手段の中で文章が使われている。

一方で、書くこと自体が目的の人もいる。自分の欠損した部分をえぐり出して、文章に落とし込む。誰かの代わりに伝えたいとかじゃなくて、自分の内面をそこに残しておきたいという衝動。表現せずにはいられない感情。とにかく、この世に何かを残したいんだという熱意。自分の中のよくわからないものが文章になることで、初めて輪郭を得て、自己理解につながる。それは、自分に向けられたものかもしれないけど、意図せずして同じような境遇の人に届くことがある。

僕らは毎日たくさんの文字に触れる。Twitter、ブログ、小説。ボリュームは違えど、毎日人の意思に触れて、その度に自分の中で何かを感じ取る。文章そのものを一言一句覚えているわけではないけれど。

書き手の立場からすると、自分の書いた文章が時とともに忘れ去られてしまうのは、一抹の虚しさを感じる。書いた本人すら、全てを覚えているわけではないし、人間の構造上仕方のないことかもしれないけれど、忘却されるのは少し寂しい。

インターネットの海は毎日広がっていって、情報はプランクトンのようにそこら中に存在する。そうした中で、なぜ書くのか。記憶からその内容を忘れ去られたとしても、なぜ書き続けるのか。

最近読んだ「うしろめたさの人類学」という本の中に、その答えの一端を見つけた気がした。

大学の准教授でもある著者は毎日教壇に立ち、学生たちに教えている。だが、そこで教えた内容を全員が全員覚えているわけではない。1週間も経てば忘れる生徒だって出てくる。それでも、教える・伝えるという行為に意味づけをするならば、誰かに伝えようと思った「熱量」だけは残り続けるのだと、著者は綴る。

教育とは、この届きがたさに向かって、なお贈り物を続ける行為なのだと思う。

教育に限らずとも、自分を表現して誰かに届けと思う熱量を感じてもらうだけでも、書くことに価値がある。熱量を贈り続けること。それこそが、毎日書き続ける意味なのだろう。

誰かに届けたい、贈りたいという行為はともすると押し付けにすぎない。贈られた方は迷惑に思うかもしれない。それでも、熱意は少しづつでも誰かに伝播して、自分の思いもよらないところで実を結ぶのだと思う。

書くことは贈与だ。たとえプロのようにうまくない文章だとしても、君が誰かに贈りたいと思ったその熱量だけで、かけがえのない価値を持つのだ。

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