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平成最後のあまちゃんヒーロー「ULTRAMAN」は"等身大"だから強い

戦隊シリーズ、仮面ライダーシリーズ、ウルトラマンシリーズ。

平成30年の中で、たくさんのヒーローが生まれてきては、その時の子供達に元気や希望を与えてきた。しかし、現実世界では、彼らのような物理的に強いヒーローはもはや必要とされない。誰もが臨む「皆のヒーロー」は現実離れした存在になりつつある。

そんな平成最後のこの時に、これからのヒーローについて考えさせれる一つの作品が公開された。

光の"等身大"ヒーロー「ULTRAMAN」だ。

来たぞ、我らのニューヒーロー「ULTRAMAN」

「ULTRAMAN」は、累計150万部を突破している「ヒーローズ」で連載中の人気コミックが原作の3Dアニメーションだ。2019年の4/1にNETFLIXで全世界同時公開された。この4/1というのは、1966年に初代ウルトラマンの放映が初めてマスコミに公開された日と同じである。

主人公は初代ウルトラマン、ハヤタ隊員の息子である進次郎。現役の高校生だが、生まれながらにウルトラマンの遺伝子を持ち、人間離れした力を持っている。本作のULTRAMANは巨大化しない代わりに、マーベルコミックに出てくるアイアンマンのような金属装甲をまとって戦う。必殺技のスペシウム光線は、両手首のパーツをジョイントさせることで発射する仕組みだ。

公共の正義と私情の正義

本作品のテーマの1つは「正義のヒーローとは何か」だろう。

初代ウルトラマンが生まれてから半世紀以上が経ち、価値観が多様になった今、ヒーローの正義は、対立相手を倒せばOKではなくなりつつある。

主人公の進次郎も、はじめ自分の手で異星人を殺めることに対して抵抗を見せる。彼が思春期真っ只中の高校生であることも手伝ってか、科特隊が組織として目指す正義と、私情の正義の間で彼は揺れ動く。

本作には、進次郎の他に2人のULTRAMANが登場する。彼らは進次郎の持つ2つの正義をそれぞれ誇張したかのような存在だ。

1人は科特隊の先輩ULTRAMAN、諸星。彼は任務に私情を挟むことを一切しない。科特隊が悪だとみなしたものは、彼にとっても悪であり、裁くべき存在だ。異星人のバックグラウンドなど気にしない。人に危害を加える、だから倒す。その姿は、従来のウルトラマンに近いかもしれない。

公共の正義に順するなら、悪い異星人は全て倒すべきだが、進次郎にはそれがなかなかできない。諸星から「本当にあまちゃんだな」と罵られながらも、私情を捨てることができない。諸星との対立からは、大きな正義には大きな責任を伴うことが見て取れる。

ヒーローは誰かの憎しみや苦しみを肩代わりする存在でなければならない。誰かが別の誰かの悪のせいで苦しんでいるなら、彼らの代わりに断罪する。諸星の言葉には、「最後に手を下す当事者になりきれないのであれば、ULTRAMANとして正義の代弁者になることはできない」という彼なりの正義の哲学が含まれている。

もう1人はシリーズの後半で登場する、科特隊に属さないフリーのULTRAMAN、北斗。彼は諸星とは真逆、私情込み込みで、ULTRAMANとして戦う。彼がULTRAMANとして戦う理由は、超個人的な理由。(その理由については、ぜひ本編をご覧ください。。!) だから、時に「それはULTRAMANとしていいのか」と疑いたくなることも平気でする。彼にとっては、ULTRAMANはみんなのヒーローではなく、自分の正義を貫くための道具なのだ。

北斗は自分の正義を貫くために、時に社会から見たら悪とも切り取れる行動をとる。進次郎は、そんな北斗の行動を制するが、北斗からは「目的もないのにULTRAMANになるな」と批判される。中途半端な公共の正義感を振るわれることは、北斗にとっては悪でしかないのだ。

"等身大"だから持ち得た、あまちゃんで中途半端なりの強さ

あまちゃんで中途半端な進次郎だが、彼には2人が持ち得ていない強い武器を持っている。それは「共感する力」だ。困っている人がいれば放っておけないし、全力で助けに行く。誰かが傷ついているところを目の当たりにすれば、とんでもない力を発揮する。

進次郎が目の前の人に全力で向き合える強さを持てたのは、ひょっとしたらULTRAMANが人間と"等身大"だからかもしれない。

かつてのウルトラマンは「光の巨人」と呼ばれるように、身長40メートル、体重3万5千トンで、姿からして僕らのような一般人とはかけ離れている。もちろん対峙する怪獣も巨大だ。それにウルトラマンは言葉を喋らないから、人間とコミュニケーションを取ることもほとんどない。ウルトラマンは人間の正義の側面の集合体で、怪獣は悪の側面の集合体だ。だから、マジョリティの正義がマジョリティの悪を倒せば、万事解決していた。

進次郎は、ウルトラマンの遺伝子を引き継いでいると云えども、普通の高校生として生活していて、変身しても背丈は変わらない。だから、困っている人を「困っている概念」として一括りで認識するのではなく、「困っているサラリーマンの人」「困っている学生の人」と、個々人で認識する。しかも、彼らは変身する前の自分と同じ「普通の人」なのだ。

物理的にも精神的にも"等身大"だからこそ、進次郎は「正義と何か」に悩みながらも、ヒーローとして諸星とも北斗とも違う「共感」という強さを手に入れられたのだと思う。

皆のヒーロー不在の時代の正義の化身

とある学者によると、ヒーローが求められるのは社会情勢が不安定になったり、国家の行く先が不安になったときであるそうだ。そう考えると、物理的な脅威が自然災害くらいに限定されてしまう今の時代に、かつてのウルトラマンのような「皆のヒーロー」はいらないかもしれない。

映画を見ても、皆のヒーローとして登場するのは、昔の時代をテーマにしたものが多い印象だ。誰もが頼りたくなるわかりやすい「正義のヒーロー」は過去のもになってしまった。

諸星のように私情を一切挟まずに社会悪を正す存在や、北斗のように周りを顧みず自分の正義を貫く存在は、もしかしたら今の社会からはずれているのかもしれない。これからのスーパーヒーローは、人の総意を代表する唯一無二の存在ではなく、進次郎のような自分の手の届く範囲しか守れないかもしれないけど、そこに対しては全力で向き合える"等身大"の共感力を持つものなのだ。

進次郎は皆のヒーローにはなれない。だからこそ、進次郎のように僕ら一人一人が誰かのヒーローであることが大事なんだと、平成最後の正義のヒーローは教えてくれたような気がする。

光の国から正義のために、来たぞわれらのウルトラマン。

半世紀前に生まれた「ウルトラマンの歌」の一節だ。きっと令和に合わせて歌詞を変えればこうなるのだろうという妄想を、最後に置いていきます。

光の国から正義のために、来たぞ"あなた"のULTRAMAN。

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