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世界を救う前に自分を救いたい。

今年の七夕は星も月も楽しめました。
日中はすごい暑さですが、夜はまだ涼しくて
この時期の夕涼みはなかなか快適です。


極楽橋駅の短冊飾り、今年も色とりどりです。

風鈴の音も涼しげです。


なんか大仰なタイトルですけど。


このブログはわりと、タイトルがなんとなく思い浮かんで
それについて書くという場合が多いのですが、
実はこのタイトル、1ヶ月ほど前から浮かんでいたのに
書きあぐねてたもの。


このタイトルが非常に書きにくいのは、
メサイアコンプレックスに関わってるからかなと思います。


メサイアコンプレックスとは
自分が救済者であると運命づけられていると思い込み
他者を救ったり助けたりしようとする傾向を示すコンプレックスの一種。
自尊心の低さを人を助けられるという自己有用感で
補おうとするところから来ると言われています。


どの宗教も何らかの救済を示すことが一つの存在意義。
ですので、メサイアコンプレックス的な傾向をもつ人が
集まりやすい分野でもあります。


心理・医療・福祉などの対人援助の職種や
占い師やヒーラーなどのスピリチュアル系の職種も
同様かもしれません。


他の人を助けたい、という気持ちは大変尊いもの。
ですが、メサイアコンプレックスから対人援助の行動をするのは
望ましくない、ということもこのような業種では
共有されていることでもあります。


そもそも仏教では、仏道修行を始めるにあたってはまず
「菩提心を起こす」ということが重視されます。


菩提心とはさとりを求める心。
大乗仏教では特に、一切衆生を救うために自分が
仏の境地に達したいと願いさとりを求める心のこと。


自分一人を救うためでなく、生きとし生きる全てのものを
救いたいという心から始めるわけです。


仏教がなぜまず自分が仏になることを目指すかというと、
仏は過去・現在・未来を見通した上でその人にとって
最も望ましい救済の道を示すことができるから。

前にも書いたことがあります。

自己犠牲やマウントや優越感や自己満足はそこにはありません。
まあ仏ですから当然か(笑)

しかし、大乗仏教はみんな仏になるのがゴールですから、
こういう感情もなく人を助けられるようになる、はず、
と考えているわけです。


その段階に行くまでの過程で、少なからずこういう気持ちが
あってもまあ無理からぬことではあるのですが、
少なくともそういう思いがある、ということに自分で気づける
ことは大事です。


ネットやSNSの急速な普及によって、
自分と世界との間の距離感も以前よりも急速に近くなった
感覚があります。


メサイアコンプレックス的行動が自分の周りの人だけではなく、
社会や世界の出来事に対しても起こっているのは
そのことと関連があるように感じます。


ライトノベルなどのサブカルチャー分野で
「セカイ系」というジャンルが盛り上がっていた時期があります。
今調べたら2000年ごろですね。
最終兵器彼女って20年前か…。


「極私的な関係性の世界が、社会といった中間的で具体的なものを
介することなく直接的に大きな世界の問題とつながる物語群」
というのが「セカイ系」の定義の一つですが、
ネットによってある意味これは現実のものとなったのかもしれません。


「セカイ系」がほぼ姿を消した2010年ごろというのは
Twitterの人気が高まり、iPadの発売が開始され、
Facebookの映画「ソーシャル・ネットワーク」が封切りになり、
ウィキリークスがアメリカの外交公電を大量に公開し、
尖閣沖で中国の漁船が海上保安庁の巡視艇に衝突する事件が
起こってその映像がネットに流出された、という時期。


ある意味「世界を救う」行動のようなものが誰にでもできる、
という感覚が共有されるようになったのがこの頃以降の現代。


であればこそ、まず「自分を救う」ことの重要性も
これまで以上に高まっているはず。


「自分を救う」というのは、自分を満たし心を安定させること。
慈悲と智慧を磨き、グラウンディングして適切なエゴの強さを
養うことです。
自分の意志と力を適切に使うために大事なのは、そういうものです。


大きな世界の動きに酔って何かできる気になるだけでなく
心から世界がよくなってほしい、と願うのであれば、
その上で自分ができること、したいことを見極めて行動した方が
効果的です。

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