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相対的在り方でしか全知(+∞□-∞)から“有”を顕すことができない

こんにちは、領です。

先日、NHKスペシャルでABC予想について放送されていました。

この番組を見ながら、光や電子の粒子と波動の二重性について物理学者たちがいろいろ論じ合い、光や電子などの物理現象が、粒子のような性質と波動のような性質を併せ持つと結論付けたことを考えました。
数学がより真相に近づいていると思いました。

ポアンカレは「違うものを同じと見なすことが大事」
望月新一博士「同じ物を違うと見なすことも重要」
行ったり来たりできる数学。

とってもワクワクする話がいっぱいありましたo(^-^)o

数学に詳しいわけではない、数学をイメージすることが好きなだけの私ですが、思ったことを書いてみます。

相対的な在り方だけが、存在を顕すことができる。
相対的な在り方でしか全知(+∞□-∞)から“有”を顕すことができない。

全知が存在するには、世界の構造がどう在るべきか。
全知を前提に構築しないとならない。

「全知」をかかえた瞬間、「全知」+αによって永遠に全知に到達できないと思われがちですが、相対的な在り方の全知(+∞□-∞)であれば、打ち消しあってゼロの状態になり、無次元の点として、全知に至ることができます。
全知と相対的在り方は深く関係しています。

(+∞□-∞)=0
□はネッカーの立方体です。+と-は相反する性質という意味です。

ネッカーの立方体は、上から見た立方体と下から見た立方体が入れ替わります。
以前も書きましたが、どうにか同時に立方体を見ようとしたら平面の模様になってしまいました。立体としての存在が消えてしまいました。
波動性と粒子性は、確定的な同時観測はできないことを考えました。

ネッカーの立方体は、上から見た立方体と下から見た立方体が交互に見えます。
このような多義図形はたくさんあります。
究極の多義図形・・・それって無次元の点だと考えました。無次元の点からは+∞と-∞が、つまり世界の一切が顕われます。世界、反世界。

ネッカーの立方体を上下同時に見ようとしたとき、立体が消えてしまったように、この世の相反することを平等に観たとき、涅槃寂静に至ることは同じ構造です。善悪・快苦・生死・自他を平等に観る。

そこで何を悟るか。何を明らかに知るか。無次元の点が全てに対して、どのような関係を持つのか。
この世の存在に「確かに存在する」という作用、作用というより、在るから在るという感じです。それを一応、私は「観」(かん)と呼んでいます。
渦の中心に必ず在る中心点のことです。
「観」は「真の自己・仏心・気づき・観照」のことです。

「・」=(+∞□-∞)

存在する全てに唯一の「観」が在ります。
全知を可能にするには唯一の「観」という構造が必要です。

この「観」は、「私」ではありません。
この「観」は、この世に存在する全ての「私」を確かに有とするために在るものです。

そこに注意ですが、あえてわかりやすくすると

「私」が全てを知っている=全知
全知=「私」が全てを知っている。

個であり、全ての人が「私」という構造。それが全知です。

無次元の点は、時空に遍在します。時空は、「観」に隅々まで満たされています。
人が「観」(仏性・神)を有しているわけではありません。
「観」(仏性・神)に満たされた海に、人という現象が漂っているだけです。人という現象が消えれば「観」のみの根源的状態になります。
「観」が存在しなければ、「私」は、無と同然です。

ネッカーの立方体のように、一つに対して二つの見え方が在る。
同じ唯一のものであり、異なるものである。
このような相対関係が、全知からつかの間の“有”を存在させる唯一の方法・・・。

なんてことを考えました。

そこで、何が言いたいかというと
核兵器のボタンを押すとき、それは「自分」の頭上に落とされるということです。
テレビの中で苦しむ人は、そのまま「自分」ということです。

昔、攻殻機動隊でタチコマが「映像に証拠能力はありません。」というようなことを言っていたけど、確かに何が何だかわからない状況です。日本も安全ではなくなったりしたら・・・。

「みんなー全部、自分だよー!!」って叫びたいです。

読んでくれた方、ありがとうございます。

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