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真・プロレスラーは観客に何を見せているのか TAJIRI



ようやく読めました!TAJIRI選手の新著!

結論、プロレスラーは客からお金をもらえるようになって一人前なんだと。プロレスラーと名乗れたとしても、お金を払うに値しないレスラーになるなと。TAJIRI選手はXで「関係者に読んでほしい」と仰っていました。その意味がこの本を読んでわかりました。

以前書いたんですが、TAJIRI選手ていつ見てもTAJIRIじゃね?と。言葉を選ばず言えばなんだか怪しい佇まいだし、歩き方から試合後のコメントまで全部怪しい笑。TAJIRIというキャラクターを演じているというより、TAJIRIそのものがいつもそこにいる感じ。例えて言えばグレート・ムタとかアントニオ猪木とかと同じ空気感。一般人らしさを見ることが逆に難しいレスラー。それがTAJIRI選手。

今作を読んで1番に驚いたことは、技術論の多さ。ファンが読むよりむしろ現プロレスラーやこれからレスラーを志す人が読んだ方がためになることがてんこ盛りです。

'97より新日に上がってからの苦労話も中々身に染みるものがあります。上下関係バッチバチの中に意図せず放り込まれる怖さ、考えただけで胃に穴が開く・・。

読んでると著者は、当時からメジャー団体の新日にほぼ興味がなかったことがわかる。レスラーなるものみんな新日や全日に憧れを抱くものだと思ってたのでこれまたおもろい話でした。しかも東京ドーム観客動員数記録を持つあの大会のオファーでさえ断ったらしいのできっと本物なのだろう。

著者は本文中で最近はプロレス含め、世の中はフラットであることをよしとする社会になってしまったという。会場でヤジなんて飛ばすもんならSNSですぐさま拡散されるだろう。そんな総スマホ社会では自ずと波風立たさず、レスラーも観客も関係者もクリーンなポジショニングが求められる。

はたしてそれはいかがなものかと著者は問い掛ける。わたし自身も同意で、もっと根っこの部分から話すと、近代教育からの脱却を目指そうねという流れがようやく昨今出てきたのに、既に総スマホ社会がゆえに中央統制でなく相互監視社会になってしまっている。そうなると先生も生徒も均一化やはたまたお互いが妙な距離感を取り合ったまま学生生活を送ることになる。なぜなら、なにかしら気掛かりなことが起こればすぐさまSNS行きなので。話が逸れそうなのでこれに関しては後日詳しく書いていきたい。

プロレスラーは商人でなく哲学者という。商人は客に媚を売ってまで利益を得るために物を売る必要がある。一方、哲学者はわたしの持論はこうです。どうぞご自由に拾ってくださいというスタンスだ。

プロレスは闘いなのかアートなのか。重要なのはそういったジャンルの問題ではなく、コンテンツやレスラーの生き様から活力をもらえるのかという力道山の街頭プロレス時代から脈略と続く根源的には変わらいものだという。

"すべてが明らかでないと納得のいかない人間も増えた"


著者は本作の後半部分で、中央(広い意味での東京)は情報が過多で、受信する側(コンテンツを受け取る側。つまり我々)の感覚が麻痺してしまっているという。なるほどなあ。たしかにネットの中だけでなく、東京の情報量の多さは尋常じゃない。あらゆる大型イベントも東京を軸に発信され、それらを我々が取捨選択する。はたして正確にできているのか自分でもわからないときがしばしばある。

そんな世の中でぼくがプロレスを選ぶ理由はなんなんだろう。「刺激が強くておもしろいから」「非日常を味わえるから」「日頃のストレスをぶつけられるから」「憧れのレスラーと自分を重ねて元気をもらえるから」などなど、たくさん理由はあるでしょう。その中でも「活力をもらえる」プロレスに魅了されるファンの方々は多いのではないでしょうか。かつてアントニオ猪木氏は言った。プロレスは、街中の喧嘩に野次馬が集まってあれやこれやヤジを飛ばすのと同じだと。


"もしかすると、非日常の刺激を求めて観にいくものだったプロレスが、日常での疲れを癒やしにいく場所へと変わってしまったのかもしれない"

憩いの場と化すプロレス界に疑問符を投げかけるTAJIRI選手。一方で、集客に苦心し、改善を続ける各プロレス団体。大事なのは選手か、集客か。プレイヤーかお金か。文化や歴史かそれとも革新か。プロレス業界は今もなお過渡期なのかもしれない。

そんな業界で生き残れるレスラーはどんな人間なのか。どんな人生を歩んできて、どんな哲学をもったレスラーなのだろうか。きっとそういった選手は、下手であろうが上手かろうが前転一つで観客を魅了出来る選手だろう。また一つ、プロレスの楽しみ方が増えた気がした。そして、わたしはまた闘道館に向かうのであった。プロレスTシャツを買うために。


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