【全文公開】銭湯図解(中央公論新社)「おわりにかえて」


こんにちは、イラストレーター/番頭の塩谷歩波です。2019年3月3日放送の情熱大陸に出演致しました。情熱大陸の取材が始まったのは「銭湯図解」の入稿ギリギリ。色校チェックをしている時から、本が出版され2月24日のコーヒー風呂開催まで一ヶ月ほど密着取材は続きました。「銭湯図解」の疲労も抜けないまま取材が始まったので、実は撮影中は、疲労がピークになり逆流性食道炎のようなものも患っていました。そんなこんなでボロボロの状態で迎えた情熱大陸放送の日。私の何かの発言で炎上するんじゃ・・あとで誹謗中傷があるのでは・・と更に胃を痛めつつ、ハラハラしながら友達と画面を見つめていましたが、終わってみると多くの方から素敵な感想を頂きました。「情熱大陸をみて感動しました」「建築業界にいるので凄く共感しました」「早稲田を目指して勉強しているので勇気をもらいました」などなど。私が最初に感じていた不安は杞憂で、優しく嬉しい感想を沢山頂き、また、放送を通して"背中を押された"という感想もあり驚きました。銭湯に転職して本も出版しましたが、私は未だにネガティブ思想だし自分は何も成長できていないと思うことも多いのですが、そんな私のこれまでが、誰かの背中を押しているだなんて本当に誇らしく感じております。こんな今があるのも、これまで私を支えてくださった皆様、小杉湯の皆様、銭湯経営者の皆様、友達たち、前職の皆様、そして今この文章をご覧になってくださっている皆様のお陰です。番組を通して、改めて皆様に感謝を申し上げたく、そして今の私の思いを皆様に伝えるにあたり、「銭湯図解」の最後に記した”おわりにかえて”を全文公開したいと思い立ちました。”おわりにかえて”にはこれまでの半生と、そして銭湯図解を書き上げてからの今後の思いを記しました。情熱大陸をご覧になった方、そしてご覧になってない方も、今一度この”おわりにかえて”をご覧頂きたく、中央公論新社さんから許可をもらい、ここに全文を公開します。少々長い文章ですので、お時間のある時にご覧くださいますと幸いに存じます。

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【母の背中に憧れて】

『銭湯図解』、お楽しみいただけたでしょうか。思い起こしてみると、銭湯図解を描いたきっかけは中学時代に遡ります。その頃、私の母はインテリアコーディネーターの専門学校に通っていました。学校の課題として空想の住宅の内観パースを描く母の背中に憧れて、パースの描き方を教えてもらいました。はじめて描いた建物の絵は本当に拙いものですが、そのときに、建物を描くことの楽しさを知ったのです。

 そうして建築に興味を持つようになり、早稲田大学の建築学科に入学しました。四年生になると、芸術的な視点から建築の研究を行う、入江正之先生の研究室に所属。卒業論文のテーマは地方都市を対象に町並みの色彩を研究するもので、研究地の風景のスケッチと、町の景色をつなげた三mの絵巻物を二つ制作しました。このとき町の方から「自分たちの町が全然違って見えて嬉しい」という声をいただき、私の絵を喜んでくれたことに感動して、「こんな絵を描くことを仕事にできたらなあ」と思ったのです。

大学院の最後の課題では、「設計と絵」をテーマに設計課題を発表しましたが、イラストを使った導入部分の評価は高かったものの、設計自体はまるでダメ。このとき、絵がどれだけ好きでも設計には一切結び付かないのだ、と強くショックを受けました。しかしそれなら、スケッチをたくさん描く建築家の下で修業を積んで、いつか設計と絵を結び付けられる建築家になればいいと思い、設計事務所に就職したのです。
 早く一人前になって、大学院最後の課題評価を見返してやりたい。そんな思いから目の前の仕事に没頭していきました。一方で、大学時代から、設計課題に集中しすぎて体調を壊すことが多々ありました。このときも、同じように集中しすぎて、食事や睡眠など生活の基本を蔑(ないがし)ろにするようになったのです。そうして、働き始めて一年半が経ったとき、心身の負荷が限界を超えて、体にさまざまな不調が現れるようになりました。

【罪悪感なく行ける唯一の場所】

 その時期には目眩(めまい)や耳鳴りが頻発し、朝起きると疲弊感が強く遅刻がちに。人と話していても頭が回らず、顔色は紫色でした。体調の悪さからケアレスミスが重なって強い自己嫌悪を感じるようになり、死ぬのも選択肢の一つと感じるほど精神状態も悪化していったのです。
 あまりに体調が悪いため一週間の休養をもらい、病院に行ったところ、「機能性低血糖症」との診断がおりました。ストレスにより副腎機能が低下して血糖値をコントロールできない状況になっていたそうで、体調不良や抑鬱気分もその症状の一つとのこと。医師の診断で休養期間は三ヵ月に延長されて、仕事を引き継いで休職することになりました。
 休職中は実家で休んでいましたが、会社に迷惑をかけていることや、家族に心配をかけていることに罪悪感を覚え、心はまったく休まらない日々。そんなとき、同じように休職していた友人と会うことになり、そこで銭湯の話が出ました。友人はちょうど銭湯通いにハマっており、一緒に行くことになったのです。

 久々に銭湯を訪れてみると、昼間の光が差し込む大きなお風呂は本当に心地よく、同世代がいないことへの安心もあり、鬱状態だった私にはずっと被っていた硬い殻が溶かされていくような安らぎを感じました。そのことをかかりつけの医師に話してみると、「体を温めるのはいいと思いますよ」と銭湯通いをすすめられました。当時は休職していること自体に罪悪感があり、楽しいことをしてはダメという考えに縛られていたため、医師のお墨付きをもらったことで銭湯は罪悪感なく行ける唯一の場所に。また、家の近場にあり入浴料がワンコインということも、体力がなく、休職中でお金のない身には助かりました。
 さらに、あつ湯と水風呂を繰り返す交互浴が私の体調にはぴったりで、繰り返すごとに血行がよくなって体は軽くなり、ネガティブだった心は前向きに。「銭湯に行くと調子がよくなる」、そう実感してからは、「今日はどこの銭湯に行こうかな」と毎日ウキウキするほど銭湯のことが大好きになっていきました。

【はじめての銭湯図解】

 そして、あるとき友人と上野の寿湯に行った日のこと。寿湯は上野にある老舗の銭湯で、その日は上野公園をランニングしてから寿湯に行きました。
 ランニングの後というのもあって、お湯につかると身も心もふやけるような気持ちよさ。定番の富士山の大きな絵を見ながら改めて銭湯っていいなあという思いを噛み締め、この気持ちよさと多幸感を誰かに伝えたい!という思いに駆られました。この時期、ほかの友人とツイッター上で絵日記を交換する遊びを細々と続けていたため、この幸福感を銭湯に行ったことがない彼女にも伝えたいと思い、描いたのが、はじめての銭湯図解でした。

 建築図法を用いた描き方をしたのは、建築学科の同期だった彼女にもわかりやすい表現を考えたからです。ツイッターに投稿したところ彼女は興味津々で「行ってみたいね」と返してくれ、さらには予想もしていなかったことに、彼女以外の人からもたくさんの反応がありました。
 銭湯図解をツイッターに投稿するごとに多くの方から反応をいただくようになり、だんだんと自分の絵と、自分自身に対しても自信が持てるようになりました。七枚ほど描いたタイミングで、銭湯メディアの「東京銭湯」さんから図解を記事にしたいとの連絡が。記事が公開されるとさらに多くの反応があり、そうしたなかで小杉湯から「うちのパンフレットを描いて欲しい」という連絡があったのです。

【銭湯への転職】

 声をかけてくれたのは小杉湯三代目の平松佑介さん。ハウスメーカーの営業として勤めた後にコンサルティング会社を仲間と立ち上げ、その後、家業である小杉湯の運営に加わりました。私に声をかけてくれたのは、ちょうどその頃でした。パンフレットの打ち合わせに行ったのですが、平松さんと話すうちに、パンフレットに限らず小杉湯に関わっていきたいと思い、その後は頻繁に小杉湯に通うようになりました。

 やがて体調も大分回復し、設計事務所に復職しました。最初は時間を制限してゆっくりと働き始めたのですが、簡単な作業なのに集中力がまったく続かず、仕事終わりには呂律(ろれつ)が回らなくなるほど消耗してしまう日々。休職する前とはまるで違う体のようで、大きなショックを受けました。何日経っても一向に調子は戻らず、簡単な模型作業すらできないことを自覚したとき、「今の体調では建築業界で働くこと自体無理」と認めざるを得ませんでした。そんな状況を平松さんに相談したところ、「小杉湯で働いてみない?」と誘われたのです。
 はじめは、銭湯に転職なんて絶対ありえないと思いました。中学時代から建築の仕事を夢見て勉強を続けてきたのに、銭湯に転職したらすべてが無駄になる。そう思ったものの、体調的に建築業界で働き続けることも難しく、銭湯を描くことをさらに続けたい、小杉湯でやっていくことに私も関わりたい……。深く悩みました。でも悩んでいても答えは出ず、友人十人に相談して、一人でも反対したら建築を続けようと思いました。
 ところが、友人の答えは全員、「転職したほうがいい」。建築の仕事にはいつでも戻れるんだから好きなことをしたほうがいい、大学のときから絵を描くのが好きだったんだからその道を行ったほうがいい、そんな友人たちの言葉を聞いて、自分が絵を描くことをどれだけ大切にしていたのかを思い出しました。そして、卒業論文で描いた町の人たちの声も甦りました。そのときに感じた、「絵を描くことで見え方が変わる」「そこに携わっている人たちが喜んでくれる」こと——それが、銭湯図解を通して今自分がやろうとしていることだと気づいたのです。建築で培ってきたものを無駄にするのではなく、回り回って自分が建築でやりたいと思っていたことを銭湯という場で実現できるのではないか。そう思い、友人の言葉に背中を押されて転職を決意しました。

 そして二〇一七年三月に小杉湯に転職。今は小杉湯の近くに住んで、毎日銭湯に通いながら番頭として働いています。自分の環境は大きく変わりましたが、当初の「銭湯の魅力を伝えたい」という思いは変わっていません。
 本書のために半年ほど取材と執筆に集中しましたが、これほど集中して絵を描き続けることははじめてでした。執筆期間中は、朝七時に起床して夜まで休みなく絵を描き続け、ヘロヘロの体で小杉湯に行って寝る日々。家で黙々と作業を続けていると、悪い考えや過去の嫌な記憶がフラッシュバックのように浮かんで精神がすり減ることもありました。しかし、絵が一枚できあがると、とても誇らしい気持ちになり、一秒でも早く次の絵に取りかかりたくて朝食をプロテインに切り替えたりと、絵を描く充足感も改めて実感しました。もう「絵を描くのは楽しい」と純粋には言えないですが、半年を経て、辛さもすべてひっくるめて絵を描く人生を引き受けたいと今は考えています。描く楽しさを知って建築を志し、絵と設計の狭間で苦悩して体を壊し、銭湯に出会って自分の絵を描き始め、本にまとめてようやく、描く人生を歩んでいくのだと覚悟を決められたように思います。
 この先も銭湯の活動を続けていきつつ、銭湯に限らずいろいろな絵も描きたいと考えています。卒業論文のときに描いたような町並みや、公衆サウナ、人物の絵など形を問わず、ずっと絵を描き続けていくことが今の願望です。次はどんな機会にお会いできるかまだわかりませんが、またどこかで見つけてくださいますと幸いです。
 最後までお読みくださり、ありがとうございました。

二〇一九年一月 塩谷歩波

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TOP photo:アベトモユキ





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塩谷歩波

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