「お力になれずに、すみません」男子発言ノート30

読めるけど、書くのはちょっと不安。という漢字のうち、「樫」という字を今は、書ける。

家猫が重篤になり駆け込んだ病院の男性獣医師の名前に、その漢字は入っていた。

そのまま入院した猫を朝イチで見舞った夜。様子をうかがうために病院へ電話をして、担当医が呼び出されてくるのを待つあいだ、電話近くのメモ帳を手に取った。保留音の電子音楽を何度もループで聴きながら、不安を掻き消すように、病院でちらっと目にした先生の胸のネームプレートにあった名前を、書き始めた。

いらなくなったカレンダーを母が切ってメモ帳にした裏紙はつるつるしてて、ペン立てにはまともなペンがなかった。ピンク色の色鉛筆でつるつる滑りながら不安な漢字に筆がとまる。「木」へんに確か……と半信半疑、いっちょ書いてみないことには、と勘を頼りにええい当たってたらいいなと書いてみた。

「木」へんに、「堅」 

これだ、としっくりきた。これで「樫(かし)」だ。
「樫」って漢字は、人生で初めて書いたと思う。


その翌朝、昨日の朝、猫は逝ってしまった。

「お力になれずに、すみません……」

消え入りそうな声で、「樫」の字が名前に入った先生は言った。

全然そうは思わなかった。入院し丸3日ともたなかったけれど、この間、出来る限りの力を、尽くしてくれたと思えた。
左手の薬指にシルバーリングをしていて、いつもの"どうせ私じゃない誰かを好きな" 男の先生だったけど。

ひとつおおきなものを亡くしてしまった私には、不安なく書ける漢字がひとつだけ増えた。



***

12年間ずっと一緒にいてくれた愛猫"まる"のこと。もうすこし落ち着いてからまたしっかりといろんなこと、書き遺したいと思っています。とにかくまだ、どうしようもないきもちです。今書いているあいだだけ、泣かずにいられてます。ふしぎです。


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なにしてほしい?(言われたいセリフ50音 「な」より)
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大島智衣

男子発言ノート

【連載エッセイ】どうせ“私じゃない誰かを好きな”男たちの言動について。
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