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吾妻鏡完読。そして、旅は続く

鎌倉殿の13人を見てて吾妻鏡の現代語版を完読しました。原作は51巻だそうだし、学者さんが一生かけて読み込むもんなんで、半分もわかってるのかなっていう感想ですが。

図書館でずっと借りられていた第一巻も読めたのですが、素朴な感想としては、こりゃ頼朝は鎌倉入りできるはということです。
頼朝のそば近くには鎌倉殿で千葉殿と呼ばれる千葉常胤の6男や上総介広常の弟がいたりして最初から千葉とのつながりがあります。

対する大庭景親は平家を頼みにしますが所詮彼らは京都の人なので助けがない。いっとき、平家方の幹部で頼朝兄の朝長が住んでいた神奈川県松田町の松田邸に平家を入れるという話が盛り上がったそうですが、京都を離れるは嫌だと断られたそうです。

室町になると足利家は鎌倉公方というかたちで関東を分割統治しますが、昔だと日本全国の把握なんて無理なんですね。この考えは、その現実を踏まえた先駆けなんだと思います。

この話は歴史学者の野口実の話で読んだのですけど当時の京都の記録や郷土史家の研究を踏まえての仮説です。吾妻鏡を読んだというのはそういう研究成果を読み込まないと深くはわからんということなんだと思います。田舎のおじいちゃんたちの石碑研究や古文書研究はほんとばかにならない。白洲正子サンの本を読むと古老の伝説は生活の実感があるので真実も多いです。

頼朝は比企家や他の御家人に経済的に支えられ気前がよく、先代たちが仲人口であまりっ子たちに婿入りを世話して領地の口利きをしたりした信用があった。京都で具体的なことをしてくれない平家よりみなは実感があったのだと思う。。

そうなると頼朝が石橋山合戦のあと生き残ったが決定的な勝利の原因だったと思います。

最終巻が近づくとやたら島津家の人が記録に残るの面白かったです。最後の方に東郷八郎入道が唐突に出てくる。東郷家は神奈川県の高座渋谷駅近くにいた渋谷家の分家だそうですが、島津本が写本の主流で挿入された疑いを感じます。元寇で活躍し、九州に島津家と一緒に定着して長らく喧騒していたようです。家来になったのは戦国末ぐらいみたいです。東郷平八郎は彼の子孫で、代々八郎を名乗っていたのかな。分家なんで御家人であったかすら疑わしいです。

吾妻鏡は拙い資料を集めたもので古老たちの言い伝えや僧侶たちが物語化した話がいっぱい入っている。その中で北条方一辺倒でない当時の人の同情や浪漫も入り込んでいて、読み物として楽しい所ある。人を殺す無惨さや後悔が滲んでる。鎌倉ってどんなとこだったとか、昔の人はやはり違う文化の人だったなっていう昔はやだなっていう人間研究の参考になる。読んで良かったです。

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