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吾妻鏡と多様性

鎌倉殿の13人の影響で吾妻鏡を読みすすめている。
全16巻、御成敗式目の成立の前で挫折しそうである。

なぜなら、面白くない。和田合戦と承久の乱で御家人たちが族滅され、とっぴな出来事が起こらなくなるからである。
過剰な期待があったためだろう。北条泰時の息子たちと娘の早死が淡々と記述されていて陰々滅々な気分になる。
あ、なるほど、殺しすぎた反省から御成敗式目ができたんだって思った。
その理念が実行されるには実に300年ぐらいあとの江戸時代だと思うと滅入る。

鎌倉時代の歴史オタクの方が調べたそうだ。
血族結婚で元寇で有名な北条時宗は3分の4が北条義時らしい。彼らは概ね人柄がよく、教養がある。
親戚同士なので政権も安定した。

源頼朝をめぐって年寄りが拝領の着物をめぐってけんかしたり、しょっちゅう保元平治の乱の自慢話を聞かされたりする。
女の取り合い、領地争い、財産自慢をしたり、教養を鼻にかけたりするやつがいて、めんどくさい。

だからといって、殺してはいけない。鎌倉、よく百年もったなって思う。
北条さんたちは極楽寺というところで大病院と孤児院を建てたりして、福祉をがんばったらしい。

族滅され生き残った人々は梶原景時のお兄さんのように気仙沼の唐桑で牡蠣養殖をする漁師さんたちのご先祖になったり、商人になって京都で祇園祭を盛り上げたりした。

地方領主になった人も多い。鹿児島出身の人によると薩摩美男とは野球選手の川崎宗則のような目がほそい人らしい。
領主となって島津は頼朝が死んでときに最初に族滅された比企家の生き残りだそうだ。
彼らは地元のパッチリお目々ではない京都の公家風の顔立ちで新鮮だったのだろう。

人とはしたたかなのだな。
吾妻鏡も御内人という北条家の家臣の名もなき人々が活躍して盛り上がるらしい。頑張って続き読めるかな。

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