見出し画像

なんでもない日に、菓子を焼く


ものすごく、疲れたときに、わたしは何をするかというと、

菓子を、焼くのだ。


アメリカではどのアパートにも大きい
ガスオーブンが備え付けで必ずついていた。


こればっかりは、日本のあの電子レンジに毛が生えたような
家庭用電子オーブンレンジと比べてしまうと、

グランドピアノと小さなおもちゃのキーボードくらいの格差がある。


パッと気が向いたときに
シュボッと大きな火がつく音が聴こえて


”何かを焼こう”という気になる
大きなオーブンは、

アメリカに住んで良かったと心底、思える 

いくつかのうちのひとつだった。


頭を使うと糖分が欲しくなるのは本当で
当時ニューヨークの大学で

日本語でも聞いたことのないような単語と格闘していたわたしは

勉強に集中してものすごく疲れたある日、
反り返ってストレッチをして

そのまま天井を見上げて
突然はっと思い立ったように

わしゃわしゃわしゃと卵を泡立始めた。



スポンジケーキを焼くのだ。

1秒前まで、そんな予定はなかった。



お店で甘いものの匂いにつつまれながら
宝石みたいに並んだチョコレートとか

美しく飾られたケーキを

いつまでも眺めて

幸せな気持ちに浸るのも大好きだけど


自分が一から その中身の素材にふれること

指先に 小麦粉の感触や
ナッツや果物と遊ぶことは いつだって
最高の癒し


もちろん、わざわざ買い物に行くなんてことはしない


反り返って、次の瞬間には
泡立てているのだから

あるもので

シンプルに

組み立ててこしらえて


そしてあっというまに

オーブンのなかに流し込む



顔をあらって、
ふう、すっきりしたと言わんばかりに。


記憶喪失みたいに
前屈をして

粉だらけになった足元と床を眺める


アメリカの5番目くらいにいいところ

それは家のなかで靴をぬいでも、はいたままでもいいという
外か、うちかの境目があいまいなこと。

住んでいた木目の床の、古くて大きな、荘厳なアパートに

掃除機はなかった

わたしはときどき、
ほうきとちりとりでゆかを掃除するのが日課で

家中をていねいに掃いて
一箇所にゴミが、集まると

それもまた、

掃除機で大きな音を立てて床を掃除するときには味わえない


「ああ、2日で、このくらいのチリが
この家には発生したのだな」

と目に見える、喜びがあった。


記憶喪失のまま、


冷蔵庫に貼付けてある
こわれかけのIKEAのタイマーが ピー ピー ピーと鳴くころに

はっと目をさますとき


そんなアパート全体に甘い匂いは広がって
匂いの出処まで赴いて

待ってましたと

大きなオーブンのとびらを


がっしゃんと手前に引いて

上から下に、大きく全開


熱が外に溢れ出し
さっきまで液体だった

何かが めいっぱい膨らんでお目見えすると

ただ、救われたような気持ちになるのだった


冷凍してあった生クリームののこりと 
季節外れのイチゴをスライスして


不恰好で小さな、四角いイチゴのショートケーキ


そして 焼き上がった 

まだ、味が全体になじむ前の、卵の味が全面に出すぎなケーキを

口いっぱいに入れる時の贅沢な瞬間

特別な日にかぞくや友達にプレゼントして
喜んでもらうのもまた

嬉しいに違いないけれど


何でも無い日


ふつうの日



パーティーのためでもなく
何の気なしに

誰かの誕生日のためでもなく


とてもさりげなく

朝ご飯のスプラングルエッグを作るのと
同じように


イチゴのショートケーキを
自分のために 

こしらえたら

予想以上に胸がときめいてとまらなくて



ああなんて、何でもない日は特別で
愛おしいんだろうと

ひしひし、思った。


その頃卵も乳製品も使わない菓子を数年の間学んでいて
火さえかけない生の材料だけ使ったヴィーガンのデザート専門

それは自分にとってとっても楽しいものだったけど

そんな時期に、あえて 

徹底的にオーソドックスな材料で 厳重に正攻法を使い

たとえばその、
卵や生クリームをふんだんにつかった

定番中の定番の

”イチゴのショートケーキ”を作ったりするのは

そう、一番楽しいものだ。



菓子を焼くこと、

疲れたときこそ、焼くことが、わたしの休息で

なんでもない日の、祝福



”なんでもない日に、菓子を焼く。”


2012-09
Néné B.C. in New York

ここから先は

0字

¥ 100

いつも購読・ご購入・サポートどうもありがとうございます!