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共依存、暴力、そして。

わたしたちが人間的に成長していくプロセスのなかで、
精神的に成熟した「自立」に向かう手前の「依存」という段階があります。

どちらかというと、自立にはポジティブなイメージがあって、依存することはいけないことだ、
というような印象が世の中的にはありますが「依存」自体は、本当はとてもニュートラルな状態。


わたしたちが生まれてから大人になるまで「守られて」育つように、健康的な依存というのは
とても純粋なもので、なにより重要な過程です。

「依存」が自然に上手にできている人というのは、癒しの専門家として言わせてもらえば、とてもラッキーな人種だと言えます。

なぜなら多くの人が苦手な「受け取る」ということも、
実は、本質的でシンプルな「依存」の持つ性質のひとつだからです。

ところがその「依存」を誤解し人々が忌み嫌い、それはいけないことだと思いこんだまま逆走し、
「依存してはいけない」と思えば思うほどなぜか
パートナーシップや人間関係が泥沼化して蟻地獄のように依存が深まってゆく場合がある。

「共依存」と呼ばれる、お互いがお互いの個々を侵害しあっているような状態はその代表です。


本来の依存というのは、一方が自立している側で「与える」立場であるのに対しそこから何かを受け取る立場が「依存」、というシンプルな関係。

ひとつの関係性の中で、この部分は自分が与える側で、別の部分は相手が与える側、ということも
もちろん当たり前に複数存在しています。


ところで「共依存」とよく混同されがちな言葉に「相互依存」という概念があるのですが、
これは、依存から順に成長し自立したのち、相手もまた健康的に自立している状態の二つが「あくまでも自立した状態」で支え合うというような段階です。

「与えるだけ」という段階はまだまだ癒しの伸びしろに満ちていて、
与える側の「自立していること」は最終形ではありません。

その先に進むと、ちょうど与え受け取るが双方向に循環していて
自立し合っていながら依存し合っているという「相互依存」が生まれるのです。

さて言葉だけ聞くと「相互依存」も「共依存」も似たような並びですが、心安らかに与え合い受け取り合う、依存の花園と
傷つけ合い、その傷をうわべの愛という絆創膏で覆い隠す、依存泥沼劇場。

天国と地獄くらいの差があることは大体ご想像いただけるかと思います。

この共依存と呼ばれる状態は、具体的な例でいうとDV関係であるとか、その他の関係などで、お互いの境界線がなくなってしまい、抜けるに抜けられない状態。
ほとんど自覚がなくても、「共依存」の性質を持っている関係はそこらじゅうに溢れています。

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