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主の切実な願い

はじめに

全能なる神様でも、「ああなったらいいのに」と思われることはあるのでしょうか。

驚くことに、聖書にはこう書かれています。

テモテへの手紙 第一
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる

すべての人が救われることを、神様が望んでおられるというのです。

全能なる神様が、一体なぜ、望みを抱かなければならないのでしょうか。
ご自身の力で、一瞬にしてすべての人を救ってしまうことはできないのでしょうか。

これについて、聖書が何と教えているか、きちんと確認してみましょう。

予定説

以下のような聖句から、神は、救われる人と救われない人を、あらかじめ定めたのだと教える人たちがいます。

ローマ人への手紙
8:29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった──

この考え方を、予定説といいます。

もちろん、神様にはその権利がありますし、被造物である私たちがそれに文句を言うことはできません。

しかしながら、私はこの考え方に同意しません
なぜなら、それは聖書の教えではないからです。

先ほど確認したとおり、神様は、すべての人が救われることを望んでおられます

それに、聖書は、どのような人が救われるとしきりに教えているでしょうか。

どのような人が救われるか

ヨハネの福音書
3:15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

ヨハネの福音書
3:36 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。

御子みこを信じて従う者が救われる。それが聖書の教えです。
けっして、神様が一方的に選んでいるのではありません。

救いは、人の自由意志によります。
だからこそ、愛が成立するのです。

これは神様にとって、どれほどもどかしいことでしょうか。
それでも、私たちが自分の意志で愛することを、神様は望んでおられるのです。

予定ではなく、予知

時間を造られた神様は、自ら時間に縛られるようなお方ではありません。
当然、私たちが御子みこに従うかどうかを、すでに知っておられます

思い込みを捨てて、もう一度、先ほどの聖句を見てみましょう。

ローマ人への手紙
8:29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった──

これは、予定ではなく、予知です。
神様は、御子みこに従う者が誰であるかをあらかじめ知っておられるので、それに応じて召されるというのです。

これこそが、聖書の支持する考え方です。

ペテロの手紙 第一
1:2 すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。

しゅの切実な願いに応えましょう

マタイの福音書
23:37 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった

選ぶのは私たちです。
望んでおられるのは、神様のほうです。

神様は、すべての罪人を愛し、救われることを望んでおられます。
ゆえに、ご自身が人となって、地上に来られたのです。

ローマ人への手紙
5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。

ルカの福音書
5:31 イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。
5:32 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。

この熱烈な愛に応えない理由があるでしょうか。

ルカの福音書
15:7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。

天で喜びが上がるのは、私たちが選んだからです。
けっして、予定されていたからではありません。

おわりに

神様は、すべての人が悔い改めるのを待っておられます。

ペテロの手紙 第二
3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

全能なる神様が、人に対して、こうも切実に願っておられるのです。

もちろん神様は、一瞬にしてすべての人を信仰者に変えてしまうこともできるでしょう。
しかしそれは、「信じさせた」のであり、愛と服従の強要と変わりません。

この愛と、もどかしさと、究極のへりくだりを理解してください。
神様は、私たちの自主的な愛を、これほどまでに尊重しておられるのです。

予定説のようなものを打ち立てて、神様を侮辱してはいけません。
私たちが悔い改めたときに天で起こる喜びは、けっして茶番劇ではないのです。

救いは、私たちの選びにかかっています。
自分のために生きるか、それともしゅと福音のために死ぬか、その選びにかかっているのです。

マルコの福音書
8:35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。

今日から、悔い改めて、生き方を変えてみませんか?
しゅを信頼し、勇気を出して、新しい命を生きてみませんか?

ある人は、無職になって嘲られるでしょうが、しゅが養ってくださいます。
またある人は、死ぬことになるでしょうが、しゅが迎えてくださいます。

何のために生まれたのでしょうか。何をして生きるのでしょうか。
選ぶのはあなたです。
しゅはあなたの選びを、切実に待っておられます。

間違った教えを捨て、本気で聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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