主の切実な願い
はじめに
全能なる神様でも、「ああなったらいいのに」と思われることはあるのでしょうか。
驚くことに、聖書にはこう書かれています。
すべての人が救われることを、神様が望んでおられるというのです。
全能なる神様が、一体なぜ、望みを抱かなければならないのでしょうか。
ご自身の力で、一瞬にしてすべての人を救ってしまうことはできないのでしょうか。
これについて、聖書が何と教えているか、きちんと確認してみましょう。
予定説
以下のような聖句から、神は、救われる人と救われない人を、あらかじめ定めたのだと教える人たちがいます。
この考え方を、予定説といいます。
もちろん、神様にはその権利がありますし、被造物である私たちがそれに文句を言うことはできません。
しかしながら、私はこの考え方に同意しません。
なぜなら、それは聖書の教えではないからです。
先ほど確認したとおり、神様は、すべての人が救われることを望んでおられます。
それに、聖書は、どのような人が救われるとしきりに教えているでしょうか。
どのような人が救われるか
御子を信じて従う者が救われる。それが聖書の教えです。
けっして、神様が一方的に選んでいるのではありません。
救いは、人の自由意志によります。
だからこそ、愛が成立するのです。
これは神様にとって、どれほどもどかしいことでしょうか。
それでも、私たちが自分の意志で愛することを、神様は望んでおられるのです。
予定ではなく、予知
時間を造られた神様は、自ら時間に縛られるようなお方ではありません。
当然、私たちが御子に従うかどうかを、すでに知っておられます。
思い込みを捨てて、もう一度、先ほどの聖句を見てみましょう。
これは、予定ではなく、予知です。
神様は、御子に従う者が誰であるかをあらかじめ知っておられるので、それに応じて召されるというのです。
これこそが、聖書の支持する考え方です。
主の切実な願いに応えましょう
選ぶのは私たちです。
望んでおられるのは、神様のほうです。
神様は、すべての罪人を愛し、救われることを望んでおられます。
ゆえに、ご自身が人となって、地上に来られたのです。
この熱烈な愛に応えない理由があるでしょうか。
天で喜びが上がるのは、私たちが選んだからです。
けっして、予定されていたからではありません。
おわりに
神様は、すべての人が悔い改めるのを待っておられます。
全能なる神様が、人に対して、こうも切実に願っておられるのです。
もちろん神様は、一瞬にしてすべての人を信仰者に変えてしまうこともできるでしょう。
しかしそれは、「信じさせた」のであり、愛と服従の強要と変わりません。
この愛と、もどかしさと、究極のへりくだりを理解してください。
神様は、私たちの自主的な愛を、これほどまでに尊重しておられるのです。
予定説のようなものを打ち立てて、神様を侮辱してはいけません。
私たちが悔い改めたときに天で起こる喜びは、けっして茶番劇ではないのです。
救いは、私たちの選びにかかっています。
自分のために生きるか、それとも主と福音のために死ぬか、その選びにかかっているのです。
今日から、悔い改めて、生き方を変えてみませんか?
主を信頼し、勇気を出して、新しい命を生きてみませんか?
ある人は、無職になって嘲られるでしょうが、主が養ってくださいます。
またある人は、死ぬことになるでしょうが、主が迎えてくださいます。
何のために生まれたのでしょうか。何をして生きるのでしょうか。
選ぶのはあなたです。
主はあなたの選びを、切実に待っておられます。
間違った教えを捨て、本気で聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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