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MMM2009-2018:29歳変動説(MMM2011)

29歳ってのは転機となる年だ、ブッダも親鸞も出家したのは29歳だ、って世界史の参考書かなんかで読んだことがある。ちょっと調べてみると、田口ランディが「29歳変動説」というのを唱えていて、村上春樹が小説家デビューしたのも29歳という。例によって、ぼくは身の丈を知らない人間なので、おこがましくも「ぼくも何かあったらなあ」とか考えていた。

で、結論から言うと2011年はぼくにとって、とても大きな一年だった。

言うまでもなく、この年は東日本大震災があった年だ。ひたちなか市も死者も出している。また、建物の多くが甚大な被害を受け、お世話になっていた湊線は6月まで復旧できなかった。それまでのMMMでお世話になった商店の中には、店舗が壊れ閉店したお店もあった。

また、MMM自体にも大きく変化があった。これまで2年間MMMを支えていた主要スタッフの緒方くんと(清水)健祐が、健祐の実家がある気仙沼プロジェクトに専念するため事実上、離れることになった(このプロジェクトはSFCあげての大プロジェクトだったはず)。また、同じくMMMを支えていた中垣くんも自分の研究がうまくいき始め、MMMとの関わりが薄くなった。その一方で入れ替わり、ではないけれど那珂湊を支えたいという気持ちで、かなり多くのスタッフがMMMに加わることになった。その時のスタッフ同士の絆は強く、MMMを離れた場所でも親しくしている者も少なくない。

そんな中で、入れ替わらないぼくの立ち位置は相対的に大きなものになった。それに伴い、尊大な部分も増えていったのだと思う。「俺がいなきゃMMMは潰れる」「助成金のほとんどは俺が取っているんだ」「那珂湊も芸術も分かるのは俺だけさ」などと考えるようになっていた。その尊大さは、コミュニケーションの節々に出ていたと思う。

今回の写真は、そんな最も尊大だった頃の一枚を選んだ(隣はあのフリーライターのシマヅです。一年間、スタッフでした)。普通の飲み会の写真なのだけど、実家の近くの町田の会議室で会議をして、その後の打ち上げを居酒屋でやったのを覚えている。実家の近くで会議と打ち上げをすること自体、調子に乗っているし、ナメたことを口走っていたのを覚えている。本当に、調子に乗っていた。

その後、僕は人生のどん底を味わう。

スタッフから総スカンを食らうことになるのだ。

那珂湊に行った時にどのスタッフからも話かけられなかったこと、1年生のスタッフから命令されたこと、藤沢駅の居酒屋で小川先生に愚痴ったこと、当時総スカンだった総理大臣の菅さんを見て妙なシンパシーを感じたこと、「みなとハウス(宿舎)」の辛い空気に耐えられず、雨の中「やるべき調査」をやったこと、日高くんから教えてもらったももクロ聞いて頑張ったこと、色々と覚えている。会期が少なくなるにつれ今年をもって、ぼくはMMMから離れることになるんだな、そう確信していた。

MMMが終わった次の日、悔いがないように全てを済ませ、お世話になった方々にお礼を言ってまわり、最後に川崎さんの所に行った。ちょっとその時に、安心してしまったのか「これで最後です」的なニュアンスが伝わってしまい、その夜、緊急集会が開かれることになった。

その夜いろいろあって、決してスカッとした決着ではなかったけど、なんだかんだあってぼくはMMMに残ることになり、それは2018年の今まで続いている。

この2011年から、ぼくは色々なことを反省し、学んだ。もちろん「今のぼくは尊大じゃないですよ」なんて言うことはできないけど(言ったらそれこそ尊大だ!)、「俺がいなきゃ潰れる」なんてことはなくて、いないならいないで組織は続くこと、だからこそ大事なのは自分のすべきことを見極めること、ということを学んだ。

だからあの一年はあって良かったと思うし、当時のスタッフにはとても感謝している。

もう二度と、体験したくないけど、間違いなく僕の人生は変動した。

いや、変動させてもらった。ありがとう。

…もう二度と、体験したくないけど。

それにしてももう7年前の話。当時のスタッフでも29歳を超えた者、もうすぐ29歳を迎える者も多い。皆さま、どうか良い29歳を迎えますように。


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