見出し画像

「アートプロジェクトの時代」が終わる前に:地域に文化芸術を残すためにできること

(合計6500文字程度の有料記事となっていますが、ほぼ全文読めます。「支援のお礼」として、800文字程度の簡単なおまけページがあります。もしよろしければ、支援よろしくお願いします!)

茨城県北芸術祭の開催が中止となった。

美術手帖でも言っているが、今回の中止には知事交代による影響が非常に大きい。茨城県知事は2017年8月の選挙で、現職の大井川和彦茨城県知事が、前職の橋本昌を破って、新知事となった。実に24年ぶりの知事交代だった。

100を超えるプロジェクトが展開され、約77万6000人(主催者発表)の来場者を記録した茨城県北芸術祭だが、わずか1回のみの開催でその幕を閉じることとなった。知事の交代によってその命運が左右される、という地域の芸術祭の構造が浮き彫りになったかたちだ。

ぼく自身、茨城県内で活動しているので注目していたが、茨城県北芸術祭はトラブルが見当たらないアートプロジェクト、という印象を持っていた。もちろんぼくが見落としているものもあるだろうが少なくとも、同時期にスタートしたものと比べれば圧倒的に少ないと思う。当初目標の30万人に対して、77万6000人が来場する成果を残していた[1]。

他のアートプロジェクトにありがちな芸術家と地域住民のトラブルや、野党議員による批判の声も聞かれなかった。広大過ぎる茨城県北地域を使った芸術祭だったため「これは失敗するだろう」とタカをくくっていたが、地元宿泊施設や団体との連携や「のぼり」をはじめとする案内の整備がしっかりしており、1回目は山側、2回目は海側というノリで、2回も訪れてしまった(トップの画像はその時に見た井上信太さんの「「ART ZOO」:サファリパークプロジェクト in 常陸太田」。)。訪れた大子町の地域の方が「アートでこんなに人が来るとは思っていなかった。嬉しい」と言っていたことをまだ覚えている。やはり終了理由に政治的な影響がないとは考えにくい。


1.他地域のアートプロジェクトについて

ところで他の地域で開催されている大規模アートプロジェクトに目を転ずれば、状況はさらに悪化していると考える。簡単に言えば、二つの要因にまとめることができる。

1-1.長期政権を維持していた首長(知事・市長など)の交代
1-2.アートプロジェクト批判の活発化

1-1.長期政権を維持していた首長(知事・市長など)の交代

アートプロジェクトを肝入りの政策として推進していた知事や市長が落選したり、引退したりして交代するケースが増えている。ぼくの博士論文にもまとめているが[2]、芸術祭は2001年〜2010年で7倍増している(ぼくが創設したみなとメディアミュージアムも2009年開始なのでここに含まれる)。当時から任期を続けると、単純に考えれば今年で3期目〜5期目になる。大きい自治体であれば、5選以上は強い多選批判を受けるため、難しいことを考えると「肝いり政策の終了」はさまざまな自治体で起こることが予想される。つまり、茨城県北芸術祭の事例は予想できた話である、ということだ。例えば、新潟市の「水と土の芸術祭」などがそれに該当する。「水と土の芸術祭」は篠田昭新潟市長の肝いりの政策だった。篠田市長の引退に伴う2018年の新潟市長選挙では、どの候補も「水と土の芸術祭」の継続を表明しなかった。このまま終了する可能性も十分にあり得る。

アートプロジェクトとは少し違うが東京都のトーキョーワンダーサイト事業も該当する事例かもしれない。トーキョーワンダーサイト事業は、2017年12月に就任した小池百合子東京都知事によって廃止され、現在はアートブリュットの拠点となっている。

このように長年、アートプロジェクトを牽引していた首長が退任することにより、終了を迎える芸術祭は今後も増えることが予想される。首長が有期である以上、このことは予想できた話だ。芸術祭の継続を願うのであれば、肝入り政策のうちに、芸術を地域に定着させねばならなかった。では、なぜそれができなかったのか?

1-2.アートプロジェクト批判の活発化

アートプロジェクトに対する批判が、政策の世界においても、および芸術の世界においても、増えてきている。まず政策としての批評について、アートプロジェクトが数億円の税金を使うものであれば、当然野党を中心とした地方議会の批判に晒される可能性が出てくる。最も顕著な事例が、さいたま市のアートプロジェクト「さいたまトリエンナーレ(2020年より、さいたま国際芸術祭)」である。その開催前後において、さいたま市議会ではさいたまトリエンナーレが強い批判に晒されている。

長野県大町市「北アルプス国際芸術祭」では、「大町の芸術祭を考える会」が発足し、反対の声を挙げている。また「大町の芸術祭を考える会」と連携している「NPO地域づくり工房」の傘木宏夫氏は「大地の芸術祭〜越後有妻アートトリエンナーレ」と「瀬戸内国際芸術祭2013総括報告書」の総括報告書を読み解き、集客者の計算方法、市民所得およびインバウンド観光への効果について、疑問を投げかけている[3]。

他にも批判を受けている芸術祭は少なくない。詳細は省くが兵庫県神戸市の「神戸ビエンナーレ(2007〜2015)」も、北海道札幌市の「札幌国際芸術祭(2014〜)」も批判を受けている。こういった批判が増えてくれば、政策としての「使い勝手」は悪くなるし、仮に実施までこぎつけたとしても、その芸術祭の計画に対する自由度は大きく損なわれ、コストパフォーマンスを重視する必要が強まる。例えば「なんで大金叩いて、海外の一流アーティストを招聘する必要があるのか?地元の芸術家でいいじゃないか」などと、議会で批判を受けて対応を求められる、なんてことは想像に難くない。そしてそれは大規模な芸術祭の質に対して致命傷を与え得る。このように地域には「地域が芸術に利用される」ことへの警戒心は高まっている。
次に芸術の世界においても、アートプロジェクトは批判にさらされる機会が多くなった。そもそも芸術関係者の多くは、作品が道具として用いられることに極めて抵抗感を示していた。その抵抗が顕在化する契機となったのはやはり藤田直哉の『地域アート』であろう[4]。

藤田は芸術が地域活性化のツールになることで「芸術という固有の領域であることによって期待されていた、 現世を超えたある種の力を失うこと」を批判する。藤田の論評は賛否両論あったものの、「何かに搾取されている」と感じるアーティストの代弁をしていたように思う。実際この後、アーティストによるアートプロジェクトの「芸術の道具化」についてを批判検証する集まりが増えたように思う。

このように芸術と地域のお互いがお互いに利用されることを警戒し、批判しているのが現状だろう。さてこの状況がどのような相互作用をもたらしたか?簡潔に言えば「芸術と地域間の共通認識をつくることへの諦め」だとぼくは見ている。地域に資する本当に芸術の機能とは何か?道具としての価値と芸術としての価値を両立する方法はないのか?などの議論を諦めているように見える※1。それはすなわち「首長の退任による芸術祭打ち切り」という時限爆弾の爆発を、手をこまねいて見ていることに他ならない。


2.今後について:小規模芸術祭の可能性と課題

さて、これらを踏まえて、ぼくたち地域と芸術の両方に関わる者たちはどう活動していくのか、提案したい。まず言いたいのが「芸術と地域間でもう一度、共通認識をつくろう」だ。政策における批判者たちが「芸術がいかにまちに意味がないか」をある所では数値化し、ある所では意見を結集したのに対して、アートプロジェクトの推進派はその意義を説得できる材料をどれだけ揃えただろうか?あるいは、美術における批判者たちが「地域はアートの固有性を軽視している」という意見を受けて、芸術の固有性を政策に活用する方法を真剣に考えた政策者はどれほどいただろうか?ぼくたちは、地域と芸術がお互いにとって実りのある関係構築を考えず、ある者は斜に構え、またある者は理想主義に溺れ、そしてまたある者は甘い汁を吸ってきたのではないか。だとすれば、この状況は残念ながら必然の結果のように思える。このままでは大量の「芸術の絶えた地域」がうまれる。地域と芸術に関わる者が議論をして、芸術にしかできない政策としてのアートプロジェクトを企画・実践していかねばならない。

手法は色々ある。社会学、教育などから芸術の効果を検証する研究は少なくないし、イギリスでは芸術の医療や介護に対する効果が認められている。こういったところを整理した上で、芸術祭を企画するのも一手だろう。ぼくの専門を活かして提案するのであれば「アートプロジェクトの小規模・低負担化(小規模芸術祭)による芸術の地域定着」が考えられる。小規模芸術祭は、博士論文におけるぼくの定義では年間予算が1000万円未満のもの、としていたが[2]、芸術祭が1億円以上のものと、5000万円未満のもので大きく分かれている実情を考えると、5000万円未満まで含めても良いだろう。大規模な予算が必要な芸術祭は、その多くを自治体に頼ることになる。実行委員長を務める首長が「芸術祭の実施」を決めることになるため、先述した「時限爆弾」への対応が問われることになる。一方で、小規模芸術祭であれば「芸術祭の実施」を決める代表者が、首長ではなく、芸術を愛し、強いこだわりを持った者が就任できる可能性が生まれる(この場合、自治体予算だけでなく、国や文化庁、各種財団による助成金、民間企業や個人からの寄付・協賛金をバランス良く取り入れて運営することになる)。こういった代表者が予算の多寡や批判などの外的な要因に対して、規模や内容をうまく調整しながら、芸術祭を持続させ、その芸術を地域に定着をさせた時、芸術と地域を連携させるための議論の土壌はできた、と言えるだろう。

規模が小さくなることで当然お金の動きも変わる。離れる者も少なくないだろう。地域外の知名度も大きく下がる。ぼくも「茨城県で芸術祭をやってまして〜」と言って何度「茨城県北芸術祭ですか?」と言われただろうか。知名度がない芸術祭になれば「あそこで展示しても仕方がない」などというアーティストも少なからず存在する。しかしそれでも1000万円あればなんとか運営できるし、5000万円もあれば、それなりの作家が海外から呼べるだろう。名前は出せないが、規模が小さくても、良い芸術祭であれば日本を代表する有名アーティストが参加する事例も知っている。「数億円の規模」は、芸術と地域をつなぐための必要要件ではないはずだ。今後は縮小を迫られる地域であればなおさら、である。

もちろん小規模地域芸術祭にも課題はある。後継者不足だ。こういったリーダーたちは、愛着があるがゆえに後継者育成が苦手だ。その一方で、スタッフの高齢化問題も表面化し始めている。兵庫県西宮市山口町船坂地域の「西宮船坂ビエンナーレ」の2018年度開催中止の理由は「スタッフの高齢化」であった[5]。京都府木津川市の「木津川アート」は、長年総合プロデューサーを務めた佐藤啓子氏が昨年8月逝去された。木津川アートは地域に根付いた「お手本」とも言える小規模芸術祭である。後継者は育っているとはいえ、彼女のパワフルなマネジメントに、出展作家として何度も救われた筆者としては、彼女の不在は大きいことが予想される(協力したい)。他の多くの芸術祭でも、60代、70代が運営の中心にいる。高齢の地域住民に限る必要はない。アートを梃子に地域に関わって来る優秀な人間や若手の人間を巻き込むなど、どう後継者を見つけ、どう育て、どう渡すか、というのは小規模地域芸術祭にとって大きな課題になってくると思う。


3.おわりに

2020年はアートプロジェクトの年だ。ぼくの知っているだけでも、さいたま国際芸術祭、横浜トリエンナーレ、札幌国際芸術祭、北アルプス国際芸術祭、アーツいちはら、亀山トリエンナーレ、木津川アートが開催予定である。ぼくの運営しているみなとメディアミュージアムももちろん開催予定だ。この年はアートプロジェクトがひと段落する年だろうと、ぼくは見ている。これが「地域の芸術が終わった一年」になるのか、それとも「地域と芸術の関係がアップデートされた一年」となるのか、ぼくたちの動き方が問われている。


※1:宮本結佳や勝村(松本)文子など、社会学の文脈で、芸術祭が地域に与える効果について研究したものはある。しかし、その効果を狙って芸術祭が設計されたものではない。芸術の機能を分析した上で、その機能によって、地域に良い影響を与えるために企画された芸術祭、事例はまだないのではないか。
[1]茨城県北芸術祭実行委員会(2017)「KENPOKU ART 2016 茨城県北芸術祭 総括報告書」(http://kenpoku-art.jp/wp/wp-content/uploads/2017/05/bd02924252c485acf0281be1c2724ed1.pdf)
[2]田島悠史(2015)「小規模地域アートイベントの有用性と持続性に関する研究」慶應義塾大学博士論文
[3]傘木宏夫(2016)「国際芸術祭の経済波及効果〜主催者発表「丸のみ」で議論される大町市議会〜」(https://www.jichiken.jp/about/networks/shohou/160816_02/)
[4]藤田直哉(2016)『地域アート 美学/制度/日本』堀之内出版
[5]神戸新聞(2018)「隔年の芸術祭 スタッフ高齢化などで中止 西宮」(https://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/201805/0011268956.shtml


4.おまけ:小規模地域芸術祭をよく思わない先輩達

最後に少しだけ「小規模地域芸術祭をよく思わない先輩達」と題しまして、愚痴を有料ページにて公開しています。もしよければ、引き続きお付き合いください。


続きをみるには

残り 877字

¥ 300

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

頂いた支援は、地方の芸術祭や文化事業を応援するため費用に全額使わせていただきます。「文化芸術×地域」の未来を一緒に作りましょう!