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【245回】「まともがゆれる」その1:降参し、「らしさ」に賭ける(190818)

ある温泉に日帰り入浴。休憩室で、2時間ほど読書。
木ノ戸昌幸「まともがゆれる」を開く。

半分ほど読んで、手が止まってしまう。

著者が職場の同僚に投げかけた言葉に。

「ええ加減『まともに』できるようになりたいを捨てて、自分自身の『らしさ』に賭ける勇気を持て」(p94)

教師は、授業も、生徒指導も、同僚と協力することも、会計などの事務業務も、なんでもできないといけない。しかし、悩みは尽きない。なんでもなんてできない。

確かに苦手を克服したいという気持ちや心意気は大切だと思うが、もうこれまで十分に悩み、頑張ってきたではないか。(p94)

たしかに頑張ってきた。1年近く休職して、復帰してまだ2ヶ月もたっていない。
すでに、学校で働くことをしんどいと思っている。

「もういいや!」と爽やかに諸手を挙げたとき、心が軽くなって見えなかったものが見えてきたり、頭が柔らかくなって新たな発想が浮かんできたりするものだ。(p95)

できないことをできるようにする努力から降りること。降参すること。
だが、降参に耐えることができるだろうか。毎日毎日考えて悩んできた。
だけどもう、切り捨てていかなければ、毎日苦しい日々が続いていく。

自分自身の「らしさ」を武器に、とりあえず目の前の学校現場に生きていく。では、自分自身の「らしさ」とは何だろう。

・子どもとともに楽しむこと。
・子どもの話を聞くこと。
・子ども一人ひとりを思いながら、こうしたらどうかああしたらどうか考えて、実践すること。
・着ぐるみを着る、ウクレレを弾く、ミッキーマウスのモノマネ、授業に初音ミクの絵を使うなど、子どもを楽しませたい笑わせたい思いで行動すること。
・勉強が好き。本が好き。絵本を読み聞かせること。

このような自分自身の「らしさ」をもとに、自分の希望というのは、

誰もが安心して、それぞれに弱っちろい、ありのままの自分で生きられる、そんな場所づくり。(p89)

まさに、著者が書いてくれていたのだ。

そのような場所が、学校にできればいいのに。
そう思いながら、どの道を歩けばいいのか、第一歩さえ踏み出せない。
僕一人ではできない。
だから、僕自身がまず、子どもの前で、嘘偽りを見せない、ありのままの姿を見せるように努めている…。楽しいときは笑い、辛いときは悲しみ、間違ったときは謝る。変に飾らないだけのことを意識する。

逆に、意識しないと、できない。いや、意識すると、できる。そう言うべきか。

そして、降参していいこと。
誤解を恐れずに書けば、同僚と協力することをあきらめること…かな…。いや、違う。同僚に僕が考えていることを理解してもらおうとしないことだな。そもそも、僕自身が、同僚のことを理解しようと努めることを、もうあきらめていいはずだ。だって、しんどいのだもの。

理解の有無に関係なく、組織の一員として、協力すべきことは協力していこう。


2学期が近づき、なんとも緊張感がある中。それでも、教材づくりをした。
「キミヤーズの教材・教具」をもとに「ローテーションカード」を作った。

こういう教材を作るのは好きだ。
これをどのように使うか、実践結果はどうなったかは、また記録していこう。


夕方、ただ散歩をした。
それだけで何か、気持ちよかった。

鳥が飛び、虫が鳴き、暑さはあるが、秋が始まっている。