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ぽんこつナース10年の軌跡

 前回の記事でお伝えした患者さん。今日が出棺だったようだ。
(詳細はこちら↓)

直接お見送りはできなかったが、心の中でまた彼女を想う。

いつも温かった手が最期の数日は氷のように冷たかった。
別れが近いことを悟る瞬間だ。
「なんでこんな病気になっちゃったんだろう」
繰り返しそう呟く彼女に何て返すのが正解だったんだろうか。
押し黙ることしかできない自分に腹が立った。

亡くなった日も、そして今日も、私は自然と空を見上げていた。
理由は分からない。
でも悲しいことがあった日は、あまりに清々しい空の青さを憎らしく感じた。
「何でそんなに晴れてるんだよ」って。
これには自分でもびっくり。晴れ渡る空を恨む日が来るなんて。


 私は一般的に言ったら「使えない」看護師だ。
あまり詳しくは書けないが、新卒でマイナーな科に配属され、その後一般外科病棟を経て今は訪問看護に携わっている。もともとおっとりした性格で、家族からは「あんたに看護師なんて無理」といまだに言われ続けている。

 臨機応変な対応やマルチタスクが大の苦手。急変(患者さんの状態が突然悪化すること)は今でも怖いし、病棟リーダーをさせられていた時はもう一杯いっぱいでナースステーションで泣いた。本当に泣いた。ドクターは引いてた。朝7時に出勤して情報収集し、22時まで残業する日々。それでも不安で不安でリーダーをしている時期はかなり痩せたものだ。夜勤リーダーをすれば仮眠は0分。朝の回診のために準備をし、30時間連続で起きていることなんてザラだった。つまりは要領が悪いのだ。後輩の方がよっぽどスマートに仕事をこなしていた。

 でも私は患者さんと接するのは好きだった。検温の最中にする何気ない会話が盛り上がる。仕事の早いナースからしたら完全な無駄でしかないだろうが、私は入院生活でストレスが溜まる患者さんが、ほんの少しでも辛い現実から心を解放できたらいいなと思っていた。必要な情報を聴取した後は、病気や治療とは全然関係ない話をする。患者さんは入院中であることを一瞬忘れて、目を輝かせて話してくださる。本当に顔つきが変わる。そこにいるのは「患者さん」ではなく、親であり主婦でありサラリーマンであり子供なのだ。当然検温から戻ってくるのは遅い。

 数年前にひょんなことから訪問看護に転向し、相変わらず時間に追われながらも、一人ひとりにじっくり関われることにやり甲斐を感じている。病院は治療する場所だが家は生活する場所。時には治療よりも患者さんの価値観や信念を優先する。自宅に入った瞬間から患者さんが刻んできた時間の重みを感じる。ケアをしている最中に、ナースコールや心電図のモニター音や離床センサーは鳴らない。聴こえるのは患者さんや家族の声だけだ。

医療関係者なら必ず知っているであろうエリザベス・キューブラー・ロスの著書「死ぬ瞬間」に出てくる有名な言葉が大好きだ。

”生の終わりには、鎮痛剤よりブドウ酒、輸血より家のスープのほうが患者にははるかにうれしい”

看護師に向いてない。そんなの分かってる。
でもここまで来たんだから、もう少し先の景色も見てみたい。

仕事をしていて感じる雑念を吐き出せる場所が見つかって良かった。
また思いついたら記事にしようと思う。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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