報恩寺~長後駅のサイクリング映像 渋谷重経←渋谷重国

鎌倉幕府の御家人 渋谷氏のとくに渋谷重経についての日記の続きです。
 1247年綾瀬市城山公園こと早川城周辺から、鹿児島県さつま町~薩摩川内市へ下向した桓武天皇18代くらいwの渋谷氏5族。5族中明治時代を迎えて領主としてのポジションを持ったまま迎えた渋谷定心の入来院氏。
 渋谷定心の次男が渋谷重経で、この渋谷重経がいつどこで生まれたのか私はたいへん関心をもっています。既述のように没したのはこの映像の冒頭の報恩寺、当時は法恩寺であり、その北側、東名高速道路を挟んだ区域が屋敷跡と想定されるのでそこであるらしい。
 渋谷重経は寺尾重経を名乗り、東名綾瀬バス停付近から東のここまで寺尾○□◁町が続きます。元の寺尾村は映像内で既述したとおり。限られたエリアであるのに、江戸時代を経て今日に至る広い広い寺田を冠した町。綾瀬市史を読むと、文永/弘安の役を経て、渋谷重経は存命中に渋谷氏一統の鎌倉幕府に於ける役割の中心を担っていたようなので、鹿児島から見る渋谷氏は、東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏と分立した印象を持ちがちであるが、それは室町時代から江戸時代を経てのものと混同したものなようだと、このように走るとわかります。
 さてこの映像ではその渋谷重経の領地からその祖父である渋谷重国の長後八幡宮が主眼のサイクリング映像です。
渋谷重経の高祖父 渋谷基家が川崎市川崎区城内町を開発し拠点とした河崎城から、武蔵野国渋谷庄の渋谷城へ引っ越しました。渋谷重経の父 渋谷重国が相模国渋谷庄へお引越し。武蔵国渋谷庄と相模国渋谷庄は渋谷基家の父 武綱が前九年/後三年の役て得ていた。。とすでに日記にしています、繰り返しで恐縮。
 東横線ホームの向かい、246に面した渋谷城こと金王八幡宮から引越した渋谷重国のおウチが長後八幡宮にあったことは渋谷区史が吾妻鑑から記載しているそうです。この長後八幡宮もいろんなサイクリング番組に出てきます。こんなこと聞いたことないですよね。どもそうなんです。この長後八幡宮から綾瀬市城山公園付近へまたお引越し。私の想像ですが、五社神社辺りなのかもしれません。五社神社を中心にした綾瀬・大和エリアにその子たちの拠点があるからです。

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