浜田歴史公園~報恩寺サイクリング

1247年綾瀬市城山公園こと早川城の周辺から、鹿児島県薩摩川内市~さつま町へ下向してきた渋谷氏。渋谷氏って誰?については前の日記にて。
(小田急江ノ島線 高座渋谷駅を含む相模国渋谷庄に渋谷氏が本格的に拠点を移したのが渋谷重国⑫というのが復習になります^^)

 渋谷光重⑬の4男 渋谷重諸⑭の拠点がこの海老名市の浜田歴史公園。トノサマ一家のみならず農業や家事なで要員、下人た所従と云われる人々が総勢100名くらいになるので、この発掘調査した浜田歴史公園から一帯が屋敷と考えられます。1247年、渋谷重諸⑭の子 渋谷重直⑮、渋谷為重⑮が鹿児島県さつま町へ下向しました。ちなみに渋谷為重⑮が谷口為重⑮です。渋谷重諸⑭の屋敷が、渋谷光重⑬の5男 弟の渋谷定心⑭んちと近接しています。この渋谷庄の時代はまだ兄弟なので、お隣同士がありえたのでしょう。こんな感覚も走ってみて実感しました。代が下っていく鹿児島ではそうはいかない。

 さて、東名の北側を大回りして、神奈川県道40号厚木街道を、渋谷定心⑭の次男 渋谷重経⑮の拠点までの映像です。なぜ遠回りサイクリングしているのか。渋谷定心⑭の長泉寺が工事で辿り着けなかったからですw 
ですが結果落として、渋谷定心⑭の三男 渋谷重経⑮がこの相模国渋谷庄にあって寺尾氏をなり、その寺尾氏領域がどれほどであったが‽ 厚木街道を走ることで実感が深まりました。

 この日記と前の日記は、「綾瀬市史」「綾瀬市史10別編 写真で見るあやせ」「新薩摩学 中世薩摩の雄 渋谷氏 南方新社」をちゃちゃっと拝見しながら書いています。
 渋谷氏が下向した鹿児島側は三木靖氏が第一人者と思います。がこの渋谷重経はノータッチ。渋谷重経については綾瀬市史がいちばん記述があります。が報恩寺を中心に寺尾の地域に重きを置いた内容。渋谷重経がいつどこで生まれて、いつ寺尾氏を名乗るのか?、その渋谷重国⑮の広大な領地である鹿児島県薩摩川内市塔之原についてノータッチ。平塚市の旧・大野町、四之宮庄と八幡庄は渋谷重経領なのに、平塚博物館の今泉義廣氏の記述のみ。平塚市中原横宿育ちの私が中原街道に掛かる権益を持っていたであろうと想像するも、この謎だらけな渋谷重経⑮こと寺尾重経⑮の魅力です。
 厚木街道の綾瀬市を走っていると、綾瀬郵便局の辺りから東は、寺尾○□▷町だらけです。寺尾氏に関してもっともっと知りたくなるサイクリングになりました。

 厚木街道から深谷通りを南下し、東名を越えると報恩寺がある綾瀬市寺尾南になります。綾瀬市史ではこの法恩寺が寺尾重経の菩提で、屋敷も近接していたとあります。屋敷の想像図もあるのですが、場所の特定がない。これも想像かきたてるわけですが、走っていると東名高速道路の敷地から報恩寺にかけてのところであろうと推測できます。しかし薩摩川内市樋脇町塔之原よりはるかに狭い。穀物生産量は即経済力である時代。領地の意味合いも想像できます。ちなみに美作河合は新卒数年後の頃の担当エリアでした。行ってはいたものの渋谷重経をまだ知らない時期で、もったいなかった。渋谷重経は平塚、鹿児島、岡山と縁がある人でした。

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