⑤秩禄公債

画像1 賊軍の拠点、私学校址です。現在は国立病院機構鹿児島医療センターです。①では集義塾建設本旨、②では久光・忠義の賞典辞退、③では賞典禄が当初だれにいくら支給されたかを書きました。 1873年 集義塾建設本旨による私学校は此処に作られました。写真奥の山は鹿児島城、麓のエリアは居住区です。この⑤は秩禄処分になります。
画像2 鹿児島市史615頁、1873年・明治6年の秩禄公債によって、鹿児島を除く全国の士族9.5万人の、1871∼74年の賞典禄奉還者は半分を公債、半分を現金で支給された。1875年・明治8年以後ぶんは、士族31.3万人を1人平均550円で打ち切り処分された。
画像3 鹿児島市史655頁は集義塾建設本旨。集義塾(永田町)、賞典学校(鹿児島)が、1874年・明治7年に私学校となる経緯です。私学校運営は鹿児島県が支出。私学校建設翌年以後1875~77年・明治9~11年に30万石、10万石/年を鹿児島県が支給した。1871~74年朝廷→久光・忠義へ40万石なので、23.2万石の鹿児島藩支出超過。{1868~69年に鹿児島藩は約57.5万石計画の約46万石(1868年の23.2万石から×2で推計)を城下士へ支給し、朝廷へ拠出の16.8万石がある。}

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