渋谷重経系の樋脇城とその他の渋谷重経関係施設サイクリングの解説字幕

これまでもこれからもlol渋谷氏の投稿は多いと思います、どうか宜しくお願い致します。
 渋谷氏は鎌倉時代の幕府御家人の一族です。1247年7月8日の宝治合戦(三浦氏滅亡)以後、最有力御家人になってしまった渋谷氏は、この1247年に渋谷光重の2男以下の5族を鹿児島県薩摩川内市~さつま町へ下向させました。鎌倉御家人のシゴトとして、鎌倉や京都での使役が義務であり、鹿児島へ下向したといっても、そのために一族を鎌倉や神奈川県内へ配置することが怠れません。

 2023年2月に輪行して、綾瀬市~海老名市の渋谷氏関連地のサイクリング映像を3月にアップロードしています。そしてこれは2021年10月の鹿児島県薩摩川内市樋脇塔之原のサイクリング映像に、字幕解説を記述してみました。

 入来院文書は本邦の中世武士についての最重要資料であり、これで有名とも云えるのが、清色城も人気の入来院渋谷氏。その2代めにあたるのが、渋谷重経であり、厚木街道から東名高速道路の両サイドの綾瀬市寺尾の寺尾の領主でした。
 渋谷重経→寺尾重経。寺尾重経の一族が、鎌倉や京都での活動のため、鈴鹿市や岡山県英田町のほか、鹿児島県がら米穀を移入していたのが、この映像の樋脇城を中心にした、鹿児島県薩摩川内市樋脇塔之原です。

 樋脇城は戦闘用施設のみならず、塔之原の収穫物を岡山備前や三重県鈴鹿市を経て鎌倉/綾瀬市へ毎年送る物流センターであったと考えます。こうして走っていると、塔之原東側の田代川、西側の飛川が役割を果たすことが実感できます。両河川は樋脇川を介して川内川から東シナ海、瀬戸内海へ進めていくわけです。
 樋脇城は寺尾重経の子、寺尾重通・惟茂の頃に築城と薩摩川内市教育委員会は語っています。寺尾重経は1277~78年に没しています。元寇のさなかでの築城は財政的に厳しかったはずで、寺尾氏の勢力の証とも感じる。

 くわえて寺尾重経と東郷氏の関係について、塔之原殿墓と東郷渋谷氏宝篋印塔の存在。鹿児島県道333号を自転車で8分の北東の場所は、寺尾氏でも入来院氏の領地でもない東郷渋谷氏。けれども東郷氏の拠点である鶴ヶ岡城まで遠い。
 これは寺尾重経がその家老 西念をこの村子田に住まわせ、150m東方の寺尾家菩提寺の薬師堂の住職をさせていたというのが、東郷渋谷氏宝篋印塔が西念の供養塔と薩摩川内市教育委員会の看板にあったらしい。映像のとおり破壊されていて私は未確認ですが、いずれにせよ、この一帯は寺尾重経こと渋谷重経の影響が絶大だったのがわかります。

この日記、綾瀬市に方々に見て欲しいなぁ!!!

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