氷河期世代と_無敵の人_

京アニ放火事件から考えた氷河期世代と「無敵の人」


1. 秋葉原無差別殺傷事件と「秋葉原」

東京・秋葉原で2008年、7人が死亡し10人が重軽傷を負った無差別殺傷事件が起きた。人の命が奪われた。わずか10分程度の犯行だったという。元派遣社員の加藤智大(かとうともひろ)は、2015年に死刑が確定している。
加藤智大は東京で生まれ育ったわけではない。高校までは青森県内、高校卒業後は岐阜県内の短期大学に進学している。就業先も、宮城県仙台市、茨城県つくば市、静岡県裾野市などで、東京都内の勤務先はない。

無差別殺人だった。

アキバは選ばれた、選ばれてしまった、と思った。

東京で生まれ育った人ではない、東京に住んだことのない、東京に土地勘の無い人が、無差別殺人を考えたときに「秋葉原」を選んだ。渋谷でも新宿でも上野でも池袋でもよかったのではないか。東京在住ではない加藤智大は、わざわざ秋葉原に移動して犯行に及んだ。

秋葉原は選ばれる場所になってしまったのだと、この事件のときに思った。

京アニは選ばれてしまったのだろうか。
2019年7月18日京都アニメーションの放火殺人事が発生し、第一報を聞いた時、最初に思った。


2. カリタス小学校スクールバス殺人事件と「社会」

2019年5月神奈川県川崎市多摩区の登戸で、スクールバスを待っていた私立カリタス小の児童や保護者ら20人が殺傷された事件があった。

自分はカリタスの出身である。自分にとってはいい思い出のある場所が、誰かにとっては一生引きずるようなつらい思いの消えない場所となってしまった。こんなかたちでニュースでカリタスの名前を見るのはつらかった。こんなかたちで京アニの功績を世間に知ってほしいなんて思ってなかった。

カリタス小学校スクールバス殺人事件が起きた時、すぐには「社会」で起きた悲惨な事件という気持ちにはなれなかった。カリタス幼稚園出身故これは自分の世界で起きたこととして捉えてしまっていた。京アニの放火殺人事件もそうだ。本来は「社会」で起きた悲惨な事件として受け入れるべきなのだ。どうしても「俺たちの京アニが、俺たちの京アニが」という気持ちになってしまう。自分たちの領域内で起きた特別な悲劇、という視点にとらわれてしまう。

岩崎隆一は自分自身の首を切って自殺した。動機を知りたかった。なぜ殺したのかと本人の口から聞きたかった。なぜ命を奪ったのか。一人で自殺することと、たくさんの人を殺してから自殺することで何が違うのか。命を奪う犯罪行為は自分を苦しめた存在に一矢報いる行為ではないといってやりたかった。なぜなのかと本人にぶつけたかった。

京都アニメーションで起きた放火殺人事件に対しては、動機を知るのが怖い。京アニを狙った理由を知るのが怖い。ヲタクバッシングがまた起こるのがさらに怖い。ヲタ差別に繋がる報道が怖い。発信者が誰であれ、一方的な被害に合った被害者が悪く言われるのは聞きたくない。加害者理解を求める声が怖い。インターネット上の匿名で行われる被害者叩きはもう見たくない。逆も然。加害者のネットリンチももう見たくない。

それでも「青葉真司、お前が死ぬのは今じゃない」と思っている。


3. 許すこと許さないこと

もしも、青葉真司が会話ができる状態まで回復して、裁判になったとする。そこで、反省を述べたら、許さないといけないんだろうか。

許さないことは悪いこと、そう教わってきた。

許せないという言葉は重い。許せないという言葉は軽々しく言っていい言葉ではない筈だ。もし反省している人間を許せなかったらとしたら自分は正しくない人間なんだろうか。

逆も怖い。青葉真司が理由をつけて殺人を正当化するような発言をしたら、きっと加害者が被害者を悪く言うような発言にもう耐えられる気がしない。

加藤智大は動機をもられたと主張しているなど諸説あり、何が正しい情報なのか判断できる自信は正直ないのだが、青葉真司が何か発言すれば報じられるだろう。

許さなくてもいいと世間が言ったら楽になるような自分でいいのだろうか。


4. 命の重さと生産性と差別心

人の命はみんな平等だと教わってきた。
人の命は平等だと思いたい。人の命は平等だと思えない自分は正しくない人間だ。自分は人を殺していない。犯罪は犯していない。でも悪いことをしているようでおどおどしている。自分の心の中に差別の心があるからだ。わざわざ差別を主張していないだけで、平等だなんて思っていない。だから自分は正しくない。自分が命を平等に扱っていないということ自体認めたくない。命より金の方が価値があると言われる方がまだ楽だ。命と命の比較の方がしんどい。人間は差別が好きなんだと思うことがある。インターネット上もリアルも、世間には差別があふれている。差別される側になるのは本当はつらい。そして、遠くの差別より近くの差別の方がダメージが大きいように感じる。例えば、海外へ行ってアジア人だから、日本人だからという理由で差別されるよりも、日常、身近な人から差別される方がつらい。
人は平等だというキレイごとにすがりたい。

あなたのはかるはかりであなたもはかられる
あなたがさばくようにあなたもさばかれる(マタイ7:2)

2016年7月神奈川県相模原市の障害者施設で19人が殺害され、27人が重軽傷を負う事件があった。逮捕されたのは、施設の元職員植松聖。植松聖は「生産性」という言葉を使った。「生産性のない人間は生きる価値がない」という主張を今なお変えていない。

生きててもいい命だとか死んでもいい命だとか命は線引きされるものなのだろうか。線引きは誰がするのだろうか。世間なんだろうか。障害者として認定されることも、制度による線引きはされている。ただ、福祉のためであって差別のための線引きではない。

命は平等ではなく優劣あるものだと本当は心の中ではみんな思っていて、叩かれるから口に出さないだけなんじゃないか。みんなの心には植松聖がいるんじゃないか。

作品を生み出す人の命が奪われた。でも何も生み出さない人の命だって奪われていいものではない。きっと明確に言語化はされずに、生産性のない人間は排除ということを意識として心の中で思っているのではないか。それが世間というものなんじゃないか。だったら世間が怖い。リア充が怖い。同調圧力が怖い。

「作品を生み出す人」には価値がある、というと聞こえはいいが、そこに重きを置くということは、軽んじられる側も存在しているということ。現に相模原障害者施設殺傷事件の時にはここまでの支援の声はなかった。障害者たちが殺害された事件と素晴らしい作品を残してきた人たちが殺害された事件との世間の反応の差は、次の悲惨な事件を引き起こす引き金のようにも感じられる。

障害者などの社会的弱者だけではなくいずれは、高齢者、ひきこもりにもむけられるだろう「生産性のない人間は排除」という言葉が、いずれは自分に向けられる。いつか自分の番がくる。お前が排除される番だと言われる日がくる。

障害者という言葉でひとくくりにされてはいるが、目で見てわかる障害と、見た目ではわからない障害とがある。

ガンを経験した。自分の臓器は人より劣っているんだという意識がどこかにある。手術が無事終わっても、劣等感などの感情は残る。ガンだから手術が必要だと医者に言われたとき、余命宣告されたわけではないが、命の長さは医者が決めるものではない、と思った。命の重さは、誰が決めるのだろうか。

高齢、非正規、臓器は欠けている、自分は欠陥品で生産性はない。世間のお荷物だ。いつか自分の番がくる。そう遠くない未来に自分は排除される側の人間になるのだろう。生きる資格がないなんていうと、厨2病に酔っているみたいだが。植松聖の理論は、ある日突然、命を奪われても文句をいってはいけない存在があるということだ。

植松聖は「意思疎通のできない障害者を養うほど、今の日本に経済的な余裕はない」とも主張している。この言葉をそのまま受けとれば、経済的な余裕があれば、生きていてもいい命が増えることになる。日本経済の行く末によって、命の線引きは変わるのだろうか。

健常者同士だって意思疎通できないことが日常茶飯事なのに。


5. 京アニと自分の話

京アニ作品との出会いは『涼宮ハルヒの憂鬱』だった。とはいえ完全に後追いでその存在を認識したのは放送終了後だった。

キャラに命をふきこむのが声優だという考えにずっと賛同できなかった。これは自分が絵を描いて飯を食うということができなかった方の人間であることに起因しているだろう。二次元の嫁という言葉があるが、それはキャラに命をふきこんでいる人がいるからなのだ。二次元の嫁は生きている。線1本にさえ、魂がこもっている、そういう考えを持っている。

アニメファンの中には「声優」によってそのアニメを見るか見ないか決めるタイプがいる。自分は制作会社でアニメを判断するタイプだった。

生まれて初めてのコスプレは京アニ作品だった。流石にそのときは「これはついに一線越えてしまった」と思った。そして一線を越えた後はなし崩し的にコスプレをするようになった。自分の顔面偏差値に絶望しつつもコスプレのためにダイエットをしてメイクを研究した。

京アニ作品に出会ってなければ30歳を過ぎてアニクラでコスプレしてなかっただろうし、たくさんの友だちと出会うこともなかった。アニクラで遊ぶようになって、たくさんの友だちができた。「オタクっぽい」と言われて「それって褒め言葉でしょ」と返せるようになるには時間がかかったが、オタクであることは隠さなくてはいけないという気持ちはだいぶ薄れていった。声優さんの良さもみんなに教えてもらった。今はキャラに命をふきこむのは誰か一人ではない、みんなの力だと思うようになった。

京都アニメーションは、手塚治虫の虫プロダクションで仕上げを担当していた八田陽子氏が、結婚後京都で仲間を集めて外注の仕事を始めたのが事業の始まり。今でも女性社員が多く、さらに取締役に女性が多いのも会社の特徴。クリエーターの長時間労働が問題になることの多いこの業界ではめずらしいホワイト企業である。

詳細な歴史は省くが、2006年『涼宮ハルヒの憂鬱』では放送終了後も「踊ってみた」の動画が大量に投稿され、2007年『らき☆すた』あたりで「日常系」というジャンルを確立した。例えば”SF”というジャンルがある。”SF”は映画にも小説にも既にジャンルがある。ただ作品を作ったのではなく新しいジャンルの確立を成し遂げたのは京アニのほかには新海誠監督が「新海誠」というジャンルを確立したくらいしか例がないのではないか。
2013年『Free!』では「あの京アニがついに女ry」とか「京アニ作品の『Free!』」というように枕言葉がつくくらいにはなっていた。京アニとは何かと説明する言葉は不要になっていった。2016年に『聲の形』がアニメ映画化された。『聲の形』は2011年に「別冊少年マガジン」に掲載された漫画が原作である。原作ファンが「(映画化されるのが)京アニでよかった」というくらいの認知になっていた。漫画原作作品はアニメ化すると劣化する、そう思っている層もいる。でも京アニなら大丈夫、というリアクションが映画化決定時にあったのだ。

他社の下請けから始まって、少しずつ実績を積み上げていった。これだけでもすごいことだ。逆にいつの間にか他社の下請けしかやらなくなっていった会社もあるのだから。やっと「劇場用作品が全世界同時期公開」という快挙を成し遂げようとしてた時に放火殺人事件が起こった。

自分はディズニーアニメだって大好きだ。ディズニーアニメは初めて出会った頃から既に世界のディズニーだった。京アニは「世界の京アニ」になっていくところを一緒に見届けることができると思っていた。

例えば、スポーツ選手のファンになったとする。どんなにすごい選手だっていつか引退するということをわかってスポーツ観戦をしている。アイドルだってそうだ。どんなにアイドル沼にはまって、どんなに遠征して、どんなに課金しても、アイドルが年をとって卒業していくとわかっている。作品が好きでファンになっただけのつもりだった。こんなかたちで失われるということを予想していなかった。毎日毎日喪失感に押しつぶされそうだ。

血のにじむ努力が、燃やされてしまった。受け継がれていくはずだったDNAが停止されてしまった。こんなかたちで将来をとざされるなんて思ってもみなかった。外貨を稼ぐ筈だった日本の文化資産が喪失した。過去作品の作画等の消失、本社崩壊、主力スタッフの死、命が助かった人も、今までと同じように仕事できないだろう。余りにも酷過ぎないか。特に、人的資源の喪失は、会社にとっても業界にとっても日本経済にとっても大きな損失だろう。

これが日本のアニメの衰退になってはいけない。

近い将来、評論家が「あの事件から日本アニメが衰退した」なんて原稿を書くようなことはあってはならない。


6. 「一人で死ね」という意見の賛否

加藤智大は、自殺しようとしていた。自殺をほのめかすメールを友人、親に送ったことがある。もちろんメールを受信した友人も親も動いた。このほかにも警察からの職務質問で自殺しようと思っていると供述し、警察官から説得されたこともある。加藤智大と警察官のエピソードはさまざま解釈あるようだが、のちに殺人鬼となる加藤智大の自殺をとめた警察官は間違っていたのだろうか。自殺を止めることがゴールではなかったということなのだろう。
次の凶行を生まないためには「死ぬなら一人で死ね」というべきではないが、ではどうすればいいのか。教育なのか、監視社会への批判もあるが防犯カメラの設置なのか、インターネット上の法に触れる書き込みについて早急に逮捕することなのか、「死ぬなら一人でしね」にとって代わる万人に説得力のある策はないのだろうか。なんの効果もない「死ぬなら一人で死ね」という言葉が強く世間から支持されるのが怖い。

実際は「死ぬなら一人で死ね」といわれなくとも毎年何万人も死んでいる。
https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/jisatsu/16/dl/1-01.pdf
(出典:厚生労働省)

加藤智大と青葉真司は無関係だから、関連付けて考えることないのでは。という意見もあるかもしれないが、大阪教育大学附属池田小学校で発生した殺傷事件を皮切りに、単独犯が凶悪な殺人によりうっぷんを晴らしたり、自己の存在をアピールしたり、主義主張への注目を集めようしたりする事件が増えている。

失うモノのない犯罪者を「無敵の人」と呼ぶ。大量殺人に限った話ではない。Hagexさん刺殺事件や東海道新幹線車内殺傷事件、殺人事件ではないが、黒子のバスケ脅迫事件などの加害者も「無敵の人」に該当するだろう。

自己責任論で切り捨てることは第二第三の「無敵の人」を社会に生み出す可能性がある。

無敵の人による犯罪は今後増えるのではないか。既存の犯罪者予備軍の「無敵の人」に、やり直しのきかない氷河期世代が加わるからだ。さらに氷河期世代がいよいよ50代を迎える。そして「8050問題」がここに重なってくる。8050問題はいずれ9060問題となる。

「無敵の人」から社会を守ることはできるのだろうか。
「無敵の人」が生まれない社会になるのだろうか。

◎参考 「無敵の人」と最初に呼んだのはひろゆき氏
http://hiro.asks.jp/46756.html


7. 「無敵の人」と氷河期世代

氷河期世代とは一般的にはバブル崩壊後、93年度から2005年度までに学校を卒業し就職活動をしていた世代で、1970年から1982年生まれを指すことが多いが、終わりと始まりをどこに置くのかは諸説ある。93年度から2003年度となっている大手メディアの記事もある。

1970年(昭和45年)生まれは、2019年(平成31年/令和元年)49歳となる。2020年、とうとう氷河期世代の最年長が50代の大台に乗る。
高卒か大卒か修士か、また浪人したのか等で変わってくるが、2020年に50歳となる1970年(昭和45年)生まれが、大卒で就職活動していた場合は氷河期世代最年長に該当するだろう。

以下の2つの表は「大卒後の進路の推移」と「大卒の求人倍率の推移」である。色のついているところが氷河期世代である。ここでは全てのデータを網羅的に紹介せず、絞ってお伝えする。
2000年の求人倍率は0.99となり、就職氷河期の中でも特に酷く2000年を超氷河期ということもある。大卒でも2人に1人は正社員になれないと言われていた。

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次の表は「年齢早見表 2020年版」に大卒の場合の卒業年度を追加してある。氷河期世代が2020年に何歳になるのかわかるだろう。

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「引きこもり」を主語にするのと「氷河期世代」を主語にするのとでは話が違う。ここでは主に「氷河期世代」の話をする。



新卒一括採用故、就職活動でつまづき、レールから外れるとその後の挽回が難しいのはなにも氷河期世代に限った話ではない。また氷河期世代でなくとも、就職に厳しい時期はあった。就職活動のつまずきを20代のうちに取り戻すチャンスが乏しかったのも就職氷河期の特徴だ。


新卒一括採用において、学歴フィルターという言葉が使われる。就職氷河期は学歴があってもまともな就職先に就くことは困難だった。

1973年生まれの友人がいる。彼女は高校卒業後短大へ進学し、就職活動をした際「高卒で就職していればどこでも入社できたのに、短大なんていっちゃたから」といわれたという。この話は彼女の生まれた年、そして就活を何年度にするのかということに紐づいてくる。1973年生まれの彼女の場合、高卒で就活するのと短大へ進学して就職活動するのは大きな違いがあった。1992年と1993年の就職活動は違うからである。

このほかにも、大卒新卒時の頃は就職氷河期で大学院へ進学、博士へと進みいざ就職となったら、希望していた就職先が民主党政権で事業仕分けされてしまっていたなんて話もある。今度は仕事経験のない高齢の高学歴などいらないなどといわれる。就職氷河期世代は高学歴であることが確実に就活に有利になるとは限らない。

バブル期「公務員とは結婚しちゃダメ、給料やすいんだから」といわれていたのに対し、就職氷河期になると、公務員は景気に左右されない安定した仕事として人気を博し、受験者数も増加した。
学歴詐称と聞くと、高卒の人が大卒であると偽るような、実際の学歴よりも上に偽るケースを想像する人が多いのではないだろうか。自治体職員の就職時、実際の学歴が「大卒」なのにもかかわらず「高卒」と偽り、受験資格が高卒に限定されている職種で採用され、後から学歴が大卒であることがバレて懲戒免職なったという例がある。就職難だったから起こった逆学歴詐称である。

例をあげればきりが無いが、どんなケースであれ自己責任論で片付けられてきたし、実際、自分も自己責任だと思ってしまっている。


以下は2016年に連合総研が発表した報告書である。

https://www.rengo-soken.or.jp/work/201611_03.pdf

氷河期世代の大卒者の平均賃金は前の世代に比べ減っている。無職でなければいいという問題ではない。氷河期世代は正社員ですら他世代と比べて賃金水準が低い。


1971年から1974年までに生まれた世代は第2次ベビーブームと呼ばれ、年間の出生数が200万人を超えている。1970年代生まれをまとめて団塊ジュニアと呼称することもある。人口が多いため、受験では競争が激しく社会に出る頃にはバブルが崩壊していた世代ということになる。

これに対し、2019年の新成人の人口は125万人である
http://www.stat.go.jp/data/jinsui/topics/topi1140.html
(出典:総務省)

社会に出る時期と景気低迷が重なったうえ、就職氷河期が約10年以上継続したこと、人口ボリュームが大きいこと、正社員でも賃金が安いこと、非正規も正規もキャリア形成が難しかったこと、いくらでもそうなった原因を挙げられてしまいそうだが、これからさらに高齢化する氷河期世代は既に巨大な貧困予備軍を形成し、社会問題となっている。

今から10年以上前にこの世代を「ロストジェネレーション(失われた世代)」と名づけた報道があった。略してロス・ジェネとも呼ばれる。ロスジェネ高齢化時代がくる。

NHK「クローズアップ現代+」で「アラフォー・クライシス」が放送され話題となり、書籍『アラフォー・クライシス』も発売された。氷河期世代も年をとる。50歳は最早アラフォーではない。


加藤智大 (秋葉原無差別殺傷事件)
1982年生まれ

青葉真司(京アニ放火殺人事件)
1978年生まれ

自分も氷河期世代の人間である。褒められたキャリアではない。つい最近、言葉狩りにあった「非正規」といわれる立場を転々としてきた。
就職氷河期真っ只中の3月に卒業、4月から非正規として社会人1年生をスタートし、9月には3社目の会社に入社していた。つまり社会人1年目にして半年で3社。以降非正規と呼ばれる立場のまま職を転々としてきた。無敵の人と呼ばれる彼らに近い。

被害者にならないようにするにはどうすればいいのか、という気持ちも当然のようにあるが、加害者にならないようにするにはどうすればいいのか、という気持ちもある。自分だっていつでも「無敵の人」になれるのだ。自分が社会のためにできることは「無敵の人」にならないことくらいだ。

どんな社会になったらいいのか。
「無敵の人」が生まれない社会で暮らしたい。


◎無敵の人
https://dic.nicovideo.jp/a/%E7%84%A1%E6%95%B5%E3%81%AE%E4%BA%BA

無敵の人にとっては犯罪を起こす事など何の抵抗もなく、逮捕されることは社会からの追放ではなく「まぁいいか」程度の環境の変化に過ぎず、死刑を課したところで「生きることに執着していない」ため、自殺の手伝いにしかならない。寧ろ「自分が本当に警察ほか多くの人間を動かして見せた」事にこそ満足感や充実感を覚える無敵の人にとって、逮捕は予定調和のゴールに過ぎない。引用:ニコニコ大百科


◎参考 有効求人倍率と大卒の求人倍率

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◎参考 卒業年度と誕生年度

グラフ卒業年誕生年

◎参考 高齢化の現状
https://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2018/html/zenbun/s1_1_1.html


京アニ放火殺人事件で、亡くなられた方、ご遺族のみなさまにお悔やみを申し上げます。今も病院で治療を受けられている方々の回復をお祈り申し上げます。


中年ヲタのポエムにおつきあいいただきましてありがとうございました。


#COMEMO #NIKKEI

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