「好きな芸能人」を言うプレッシャー

24歳にならんとする私にとって、彼らは小・中学生時代のヒーローだった。私は彼らの大ファンということになっていた。ということに。

自分の知識の裾野がどんどん広がっていく感覚、全然別の分野が偶然つながる感覚。一つずつ自分の世界を広げていくときに得られるこんな感覚が、私はたまらなく好きだ。

小さい頃からそれは同じで、買ってもらった世界地図や図鑑を見て空想を膨らませるのが何よりも楽しかった。

親はそんな私に期待を寄せるとともに、勉強ができるだけでなく周囲とうまくやっていける人であるべきだという幻想を、常に抱いていたようだ。

物心ついたころにはすでに、「家で本を読んでいる方が楽しいけれど、これは修行だ。友達と遊ばなくちゃ。」そんな思いを持つようになっていた。私にとって友達と遊ぶことは義務であり、勉強ができることに加えてそうした社会活動もそつなくこなせることが、いい子として認められるために必要なのだと信じていた。

嵐のニュースを聞いた時、純粋な驚きとともに、子供時代の苦い思い出が蘇ってきた。

私の時代、女子のほとんどはなんらかのジャニーズファンだった。下敷きやクリアファイルは自分の好きなメンバーのもの、彼らが出演する番組は必ず予約、新曲は誰よりも先に確認して覚え学校で歌う、好きなメンバーへの愛をブログで語る。

自分もそうならなくてはと思った。この頃には自分の思いに蓋をして理想の姿を演じることが、無意識的にできるようになっていた。私は松潤ファンであり、下敷きはじめ文房具はもちろん松潤、帰宅すれば黎明期のブログサービスに松潤への愛や出演情報を書き連ね、友達から"読んだ"(Instagramでいうハートかな)を確認して一息つく、そんな生活だった。

ほんとはそんなこと思っていないのだけれど、いけてる女の子はジャニーズが好きだし、好きなメンバーのことを考えていたら勉強にも手がつかなくなるのが普通の女子なんだ、そうやって自分に言い聞かせていた。

音や香りや色は、昔の記憶を呼び起こさせることがある。嵐はそれを、存在としてやってのけた。

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