鳳凰はかく語りき ─東華百貨店物語─ 2

大正九年(1)

 橋を渡った先には、別世界があった。
 渡り終えた日比野スミは、初めて見る光景に唖然とした。先を行く千鶴子お嬢さまが「なにぼんやりしてるの、早くいらっしゃいよ」と、肩越しに叫んだ。その声は明らかに弾み、熱を帯びていた。お嬢さまもまた、この〝冒険〟に浮かれているのだ。
「は、はい!」
 あわてて返事をすると、スミは腕の中の風呂敷包みを抱えなおした。


 心斎橋筋はこの町を南北に貫く、もっとも繁華な商店街だ。
 ガス灯がずらりと並び、ありとあらゆる品物があふれ、石造りの洋館がいくつも建っている。それはまるで西洋の街並みのようにハイカラであるという。
 だがスミは話に聞いただけで、実際に足を向けたことはなかった。
 スミが奉公する針問屋『大和屋』も心斎橋筋に面しているが、長堀川を隔てた北側に店を構えている。この川はいわゆる〝結界〟となっており、北側である船場は太閤さんの頃から続く老舗の商家が並ぶ一帯、南側の島之内は明治以降に急成長した新興盛り場である。
 船場は古くからのしきたりを重視し、新参者と進んで交わることをしたがらない。そのためか、〝北〟に店を構える家では、川を渡って〝南〟の人間と付き合う者は少なかった。スミをはじめとする奉公人たちも、お店の主人から川を渡ることは固く禁じられていた。
 ひとり娘の千鶴子お嬢さまもまた、川を渡ることを許されない身であった。女学校も友人も習い事も〝北〟でおさまるよう、厳しく制限されていた。
 そのせいだろうか、お嬢さまはいつからか〝川の向こう側にある、まだ見ぬ世界〟に憧れを抱くようになっていた。


 狭い通りの両側に、ずらりと商店が並んでいる。お嬢さまはあっちの店からこっちの店へと、
「すごいわ、本当にいろんなお店があるのね!」
と、糸の切れた凧のようにくるくる動き回る。スミはついてゆくのがやっとだ。
「お嬢さま、もう帰りましょう。奥さまに知られたら大目玉ですよ」
「なに言ってるの、今日みたいな機会はめったにないのよ。存分に楽しまなくっちゃ!」
 本来ならばこの時間は、踊りのお稽古である。
 しかし師匠のお宅へ伺ったところ、突然の差し込みで動けないため、今日は休みにしてほしいと言われたのだ。予定外に身体の空いたお嬢さまは、これ幸いにと夢にまで見た〝川の向こう側〟へとやってきたという次第である。
 スミ自身は〝川向こう〟に対する興味はあまりなかった。
 他の女中仲間が活動写真やおしるこ屋に憧れを抱いているなか、スミだけはそういうものに興味を示すことはなかった。わがままなお嬢さまに振り回され、余計なことなど考えているヒマなどないのも、理由のひとつだが。
 唯一の気晴らしは、供待ち部屋でお嬢さまの下校を待つ間にする、編み物や刺繍だった。
 しかもただ漫然と縫うのではなく、新しい図案や模様を考え、それらの完成図を想像しながら針を動かすのが好きだった。昔から手先だけは器用だったこともあり、気がつけば女中仲間に教えを請われるほどの腕前になっていた。
 しかし、スミはそれを生業にしようとは思ったことはないし、できるとも考えていない。あくまで暇つぶしの手慰みと割り切っている。
 河内の農家から奉公に出てきた娘の一生とは、ただひたすら主家に仕えてお嬢さまのお世話をし、頃合いを見て所帯を持つことである。郷里の両親が相手を見繕うならば、同じ農家に嫁ぐだろう。場合によっては大和屋の旦那さまが、商売のつてをたどって娶せてくれる。そうなれば、小さな店のおかみさんとなるはずである。
 それがスミのような、特技も家柄もない平凡な娘に用意された、たったひとつの道。
 ほかの道など、あるはずもない。
 夢を見るだけ、無駄なのだ。


※サンプルは以上です

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