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2/17/24(金) チャルメラと故郷のうた

 一昨日の初六からカレンダーでもお正月休みが終わり、街も平常運転。
 
 数日前から目の周りが真っ赤になってかゆいので、昨日、やっと休みが明けた近所の皮膚科へ。接触性アレルギーとのこと。先生に、原因は自分で探ってみてくださいね、数日前までさかのぼってくださいよ、と言われ、帰り道、あ、そういえばちょうど数日前、収納の奥にあった古いタオルで顔を拭いたな、と思い出した。

 私は母の洗濯済みタオル分類法がまだ把握できておらず、棚や収納の中にたたんで積み重なっているどれがOKタオルで、どれがNGタオルか、いまだによくわかってない。
 使ったタオルを干していると、母が、
 「你用這個毛巾?」
と、私がついさっき顔や体のあちこち拭いたタオルを、指でつまんで呆れた顔で見ている。そこではじめて、私が使っていたのは、タオルとしてはすでに引退した、ぞうきん候補、もしくは既にぞうきんか愛之助用タオルだったと気が付く。母は潔癖症の気があって、ぞうきんでも汚れひとつなくなるまで完璧に洗ってある。ちょっと薄くはなっているが、私から見ればまだまだきれいなOKタオルだ。
 数日前、顔を拭き終わった後、なんとなくタオルを眺めていた。水色のまだまだ現役風だったが、端っこの分厚くなったところに、父の名前がフルネームで書いてあった。ああ、またやっちゃった、と思ったが、もう遅い。父がまだ生きてた頃、介護施設でショートステイをお願いした時に、持ち物は全て名前を書いてくださいねと言われ、母が端っこにマジックで書いたやつだ。父が死んでもう10年以上経つ。


 春節の間、noteで台湾の神様への憧れをたくさん書いていたら、神様が聞き届けて(読んで?)くれたのか、基隆から新竹まで一緒に旅した台湾人の学生エリックから、春節のお祝いで淡水で神様と練り歩くから、よかったら見にきたらいいよ、と連絡があった。私は練り歩きどころか、一人で廟に行くのもはじめてだ。
 朝10時以降に廟を出るというので、10時に廟へ行くと、すでににぎにぎしい。爆竹、チャルメラ、銅鑼、太鼓のけたたましく鳴り響く中、沙崙という海辺の町の大通りから小道まで、神様たちや楽団、踊り子、子どもたちの龍などに混ざって私も歩いた。

モーテル前で一息つく神様たち。練り歩きの日は雨が多いというが、この日は見事に快晴。

 基隆の正濱教會で、マオリの学生たちなど旅のメンバーが輪になって自己紹介をした時、彼が台北芸術大学の大学院で台湾の伝統音楽、北管を研究しています、と言ったのを、私は聞き逃していなかった。まさかこんなところで出会えるとは。しかもエリックという名前。私とほとんど同じなので親近感も湧く。
 北管など廟の音楽を、あんなの音楽じゃない、ひどい騒音、耐えがたい、と嫌う人は台湾人にも多い。強烈にうるさいことには間違いなくて、確かに自宅が廟の隣にあったら私もとっくにうんざりしているだろうけど、私の人生はそうではなかった。おびただしい極彩色と金色、ネオン、爆竹、チャルメラ、銅羅にシンバルの世界は、子どもの私の心を惹きつけて、でもその世界と全く縁がないままここまで来た。縁がないなりに、去年、フェスで歌いに行った台南ではたまたま家族友人と台湾最古の孔子廟を通りかかって、楽団についてや楽器の展示に興奮し、先月末は國樂團のコンサートに招いてもらって感動し、漢人の伝統楽器というものに改めて興味を持っていた。

Time 11:30-13:00 午餐:鹹粥、鯊魚肉 Lunch: salty congee, shark meat
Location 青雲殿 Qingyun Temple

旅のしおり From Mountain Top to the Sea Edge: A Homeward Perspective
Maori-Taiwan Eco-Arts Workshop 1/30-2/3, 2024 より

 教会から漁港の方へ歩きながら、エリックに話しかけるタイミングがいつあるかしらと様子を伺っていた。漁港の海岸には、海にそのまま降りていく古いレンガの短い階段がある。
 マトゥアはそこで歩くのをやめた。階段を少しだけ海に向かって降り、岸辺にいる私たちに話した。
 
 この階段、陸側の0段目、その場所に立つために、かつてここに移民した漢人たちは命をかけて争った。この階段は船着場だ。まだ暗いうち、この船着場の一番先頭に立てば、海から戻ってきた漁船から、一番いい魚を仕入れることができる。一番いい魚が一番金になる。
 大陸から身一つで移民してきた漢人たちにとって、先頭争いは生死をかけるに値した。誰もが少しでも金を稼ぎ、生きのびなくてはならなかった。実際、大勢の死人が出た。争いに勝つべく、血縁による組織に分かれ、組織対組織の武力衝突へと発展した。争いはますます激しく、死傷者が後を絶たない。ついに、これは人間同士が殺し合って決めることではない、天に伺いを立てるべきだ、となり、みな廟へ向かった。それぞれの血縁組織に、それぞれの祀る神があり、それぞれの楽団があった。楽団には、それぞれ楽器や流派の違いがある。流派をかけて、どちらも負けるわけにはいかない。楽団たちは演奏を通して戦うようになった。

 "They fight through music.  Music.  Yes, music."

 キョトンとした顔の私たちを、マトゥアは面白そうに眺めてくり返し、そしてエリックを見つけ、Ah, you are here.  You can talk more about this、と彼に話をさせた。エリックはそら来たとばかりに話し始めるが、興奮しているのか早口の台湾訛りの英語が聞き取りにくい。

 マトゥアが、港の先へ歩き始める。
 私が今こそエリックに話しかけよう、と彼を探すと、すでに Wasiq がエリックにいろいろ質問しながら歩いている。彼女は旅の間中スマホにいろいろメモをとっていてえらい。私も取ればよかった。
 私はすすっと二人に加わり、
 「嗨〜」
と横から話しかけると、エリックと Wasiq がこちらを向いて「嗨〜」と答える。台湾の挨拶のなんとも間延びした音が私にはちょうどいい。

 さっきの、音楽で戦うって話だけど、あなたの専門の北管がそれなの?

 そうだよ、とにこにこしている。
 聞くと彼は研究だけでなく演奏もしていて、彼の楽器は哨吶、つまりチャルメラ、あの一番うるさいやつだ。楽団たちが音楽で戦って、ますます戦いは激烈になり、やはり最後は殺し合いに発展したという話のはずだが、エリックはきっとそういう顔のつくりなんだろう、話しながらにこにこと目が輝いて、まるで、今朝子ヤギが生まれたんだ、とはしゃいでる子どもみたいに話す。

 マトゥアが少し先で、正濱漁港の名物だという、肉の薄い焼き立てちくわのようなものを、一人に一本買って配っている。先生業ってのも大変だね、学生にちくわを買って配ったりしなきゃいけないんだから、と、もうすぐ花蓮の大学で教職に着く Wasiq をはやし立てる。話に夢中になっている私たちのところへ、小豪が私たちのちくわ3本を持って、小走りでやってくる。

肉薄のちくわ。台湾の袋はいつもかわいい。サクッとしておいしかった。 

 そのまま昼ごはん。マトゥアの小学校の同級生が地元で50年やっているお店だ。食堂と呼ぶのさえ豪華に思える質素な店で、清潔にしている。トタン造りで店名はない。旅のしおりに「寺で昼食」とあったので廟を探していたが、いつの間にか予定が変わったようだ。

 「鹹粥20元」と真っ赤な看板に古めかしいフォントで大きく書いてある。正濱漁港の衰退した今、こういう店も少なくなった。かつて漁港で働く人たちは、こういう店で腹を満たした。とにかく安くて腹にたまる。
 漁港で働く人たちの腹を満たすために、こういう店があった、こういう店で、漁港で働く人たちは腹を満たした、とマトゥアはまたくり返し、厨房を忙しく動きまわる同級生に台湾語でどんどん注文していく。きれいに拭かれたテーブルに、小魚と揚げたエシャロットの入った粥、23人分が並べられていく。揚げたサメ、茹でた豚の皮、揚げた豆腐、テンプーラー、揚げた豚肉、揚げたチキンロール、揚げたイカ、残り物を寄せ集めて揚げたもの(名前があったけど忘れてしまった)、とにかくほとんど揚げもの、揚げもの。

 漁港の飯で腹を満たしたマオリの若者たちが、ニュージランドで覚えてきたというタイヤルの歌を、私たちに聴かせてくれる。
 この歌が一番好きなの、と彼女たちは言う。

 確かに楽しそうに歌っている。でも私は実はこの歌に全然興味がない。というか、むしろ嫌いだ。この気持ちはまだ母にしか話したことがない。タイヤルの歌、といったら、お前たちは他に何もないのか?というくらい、子どもから大人まで、みんなこの歌ばっかりうたう。タイヤルの古謡だということになってるけど、この音階で、こんなバカみたいな歌詞で、そんなわけないだろうと私はずっと疑っている。アレンジもなんだか適当なのばっかりで、聴くたびイラッとしてしまうが、人前ではそれを隠しているので、余計にイラッとすることになる。

 でもマオリの彼らが歌うと、なんだろう、すごくいいんだよなあ。全然違う香りの風が、まるで海からこちらへ吹いてきたみたいで。

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