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ストーブは話しているのか——大白小蟹「うみべのストーブ」

大白小蟹「うみべのストーブ」(短編)

ネタバレを含みます。


1.「自分の言葉」

 『このマンガがすごい! 2024』「オンナ」編1位を飾ったのは大白小蟹『うみべのストーブ 大白小蟹短編集』だった。作者の大白は『すごい!』のインタビューに応えてこう話している。

読み終わったあとに「読んでよかったな、明日からまたがんばろう」と思ってもらえたらいいなと思っているので。

『このマンガがすごい! 2024』(宝島社)電子書籍版28p

であれば、私が付け加えることはないのかもしれない。たしかにこの作品を読み終え「よかったな」と思う人は少なからずいるだろう。ゆえに「1位」にも選ばれた。けれど同じインタビューの中で「会話し、自分の言葉を持つことが重要」という一文が、しかも「自分の言葉」と「重要」を強調して掲げられるとき、私はまたキーを叩かなければならない。なぜなら、大白はそう話していないからである。

『すごい!』32p

このフレーズに関連する(と思われる)大白の発言はこうである。

(引用者注・『みどりちゃん、あのね』の古い慣習を「斬」るシーンに共感する感想が多いのでは、という質問に対して)はい、ですが、何かしらの代弁者として祭り上げられることには抵抗があって、あくまでも自分が読みたいものを描きたいと思っています。

『すごい!』31-32p

SNSだと複雑なことを複雑なまま伝えるのは難しいですが、閉じた空間の少人数の「会話」が知らない人にも共有されるポッドキャストではそれができるのではないかと。

『すごい!』32p

(引用者注・「会話」は)大事なキーワードだと思います。DV問題やジェンダー関連の本を読んでいても、「加害者の中に言葉がないこと」が問題になっています。また、女性たちが理不尽な社会を生きのびるためにも言葉を獲得していくことが重要だということが盛んに言われています。

『すごい!』32p

こういった大白の言葉(「その人が何を考えているかにすごく興味があ」る、とも語っている(『すごい!』28p))と、「会話し、自分の言葉を持つことが重要」という見出しは、重なるのだろうか。重なったとして、なぜ「自分の言葉」はボールドで強調され、「会話」は小さいまま(インタビュアーの言葉とも似たオレンジ色で)塗りつぶされていたのだろうか。
 その答えはおそらく、「うみべのストーブ」というストーブと男性の「会話」を描き、そのシュールさと物語の魅力で注目を集めたこの作品で、彼らがどのように「会話」していたのかに見ることができる。

2.ストーブが「話し」出すとき

 「うみべのストーブ」は、異性愛者の男女が付き合い、別れ、残された男が泣いているときストーブが話しかけて来、ストーブと男が二人海へ行く——話である。前半、男女——「スミオ」と「えっちゃん」——の「会話」は淡々と進む。それはありふれてはいないかもしれないが、珍しいとも言い難いすれちがいの光景である。洗練された造形とトーンを持った作者の絵に滲む「鋭さ」を解きほぐすような現実感ある描写を読みながら、読者は二人を感じることになる。あなたが地平線の見えないところで生きているのなら、きっと目にしたことがあるマンションのひとつに、スミオとえっちゃんはいるのである。

 その二人が別れたとき初めて、ストーブが「話し」はじめる。

えっちゃんが/出ていった

私は/ストーブだから/動けない

「うみべのストーブ」10p

ここでストーブはスミオとの暮らしを回想して語る。彼はスミオが一人暮らしを始めた最初の冬に買われ、「よく泣く」スミオの姿を見つめていた。
 ある年、スミオとえっちゃんが出会う。ストーブは思う。

スミオって/笑うんだ
って思った

同13p

三人は映画を見る。「家族/みたいに」。ところで最初に記したように、ここまでストーブはただ「話し」ている。それはモノローグであって「会話」になってはいない。
 ではどのように「会話」は始まるのだろう。えっちゃんが出ていって1週間経っても、スミオは(留守番電話サービスに繋がる)彼女の電話番号に電話をかけ続け、ろくに食べものも食べない。それを「もう/見ていられな」くなったとき、ストーブはついに「会話」を試みる。ボロボロのスミオの姿と彼に温かい熱を送るストーブが一つ前のコマに描かれることで、その印象は強調される。

同16p

しかし私たちが見落としてならないのは、もう一つ前のコマであろう。

 同15p

えっちゃん

お願いだから/話がしたい/無視しないで…

同15p

 スミオは言った。「話がしたい」と。偶然に、思わず、零れ落ちるように発された言葉かもしれないが、それは「話したい」ではなかった。「話」がしたい、と、スミオは言った。

3.スミオとストーブ「と」

スミオ

海へ行こう

同16p

 ストーブが突如、そう言う。昔見た映画によるなら、「傷ついた/人間は」「海へ行く」ものだから。スミオは意表外のハプニングに「幻聴……?」と疑いながらもストーブに近づき声をかける。その姿に応えて、声は続く。

えっちゃん/を誘って
3人で/海に/行こう

同17p

かつてえっちゃんに同様に誘われ、「寒いの/やだよ」と断ってしまった思い出を省みたスミオは泣きながら言う。

行く……

同18p

この佳境とも言えるシーンは、しかしどのような「会話」で成り立っていたのだろう? たしかにスミオとストーブの気持ちはここで繋がっている。けれど別れてから何度も、一週間もずっとかかってくる電話を拒否するえっちゃんが、一緒に「海」に行く可能性がどれほどあり得るか考えるなら、その「会話」がなにを切り落としたとき成立したのかは明白である。ここに存在するのはスミオと彼に寄り添うストーブだけでしかなく、えっちゃん自身の存在はある意味で省略されている。それを証すようにスミオはこんなラインをえっちゃんに送る。

えっちゃんが来るまで/ずっと待ってます

同19p

このメッセージにあるのは、「待っている」スミオ自身と、彼を「待たせている」えっちゃんの姿である。スミオのメッセージがえっちゃんに届く「会話」になる可能性は限りなく低いのだが、彼はまだ、それに気が付かない。スミオはストーブとともに海を眺めたときやっと、そのことを思い知るのである。

きれい/だな

えっちゃんは/これを
見せようと/してくれた/のかな……

同22p

「えっちゃん」への思いのこもったこの言葉がスミオから発されたとき、ストーブはこう応えて、彼の気持ちを受けとめる。

同じものを/みて
同じように/きれいだと
思いたかった/のかも

同22p

スミオは「俺/いつも」「自分のこと/ばっかりだった」と気がつく。「えっちゃん/よりも」「自分のことが/大事だった」ことにも。しかしまた私は問わなければならないだろう。ではこの「会話」はどのように成り立っていたのだろうか、と。

4.えっちゃん

 えっちゃんはどうしてかつて、「冬の海」にスミオを誘ったのだろうか。「同じものをみて同じようにきれいだと思いたかった」から? いや、それはストーブの言葉でしかない。えっちゃん自身はこう言っている。

冬の海って/好きなんだ/一緒に行こうよ

同18p

彼女は「冬の海」が好きだから、見に行きたかったのだ。私たちが今(そしておそらくスミオとストーブも)分かるのは、そのことだけである。他者というものを私たちは決して知ることができない。「同じものを見て同じようにきれいだと思いたかった」ことはあくまで「ストーブ」の予想であり、えっちゃんの気持ちではない。どんなにスミオにとって切実に感じられたとしても、それはえっちゃんと「会話」したことには当然、なりはしない。

「えっちゃんを傷つけてる/こと」が「なんとなく/わかって」いたのに、「えっちゃんが/何て言って/ほしいのかが」「わから」ず、「余計なこと」を言って嫌われることを怖れ、言葉をかけられなかった経験——へのスミオの反省は、それを物語る。まさにここでは「会話」が行われなかったことが嘆かれている。「うみべのストーブ」が非常に論理的に構成された作品であることが、ここからも分かるだろう。「がしたい」ことに応えたストーブによって(彼の「誘導」によって)、スミオは逆説的にえっちゃんという他者に出会いなおし、「会話」という「話」の重要性に気がつくのである。

いちばん初めの問いに戻ろう。これほどに「会話」の重要性を描き、その作品を表題作に持つ短編集が「1位」を獲った本において(しかもそこでもなお「会話」に触れながら)大白の言葉は、どうして「会話」以上に「自分の言葉」「重要」と掲げられてしまうのだろうか? おそらくそれは、この物語の終わり方に原因がある。

5.ストーブは話しているのか

同25p

波も
ばかだなー
ってさ


わかる/の……?

ううん


嘘…

同25p

この「じわる」ようなシーンの卓抜さを、先ほど「えっちゃん」の気持ちについて考えた私たちはもう、見逃すことを良しとしない。それはストーブが「他者」というものを思っていることの証左だから。ストーブは自分に「波」の気持ちが分からないことを知っている。「波」という他者は、えっちゃんと同じ、他者なのである。
 えっちゃんはもう自分のことを好きでなくなったのかな、と落ち込むスミオに、ストーブは「……わからない」と答える。しかし心の中では思う。

最近の/えっちゃんは/もしかすると/スミオを憎んで/すらいたかも

でも

スミオを/好きだった/瞬間も
たしかに/あった

同25-26p

と。このことをある思い出とともに考えたストーブは感激のあまり、「ぶわっ」と熱を放射して——私の考えでは——泣く。そしてスミオに伝える。


ふたりが…/お互いに、/好きだった/こと
私は/ちゃんと/覚えてる

何度だって/思い出すよ 

同27p

エピローグと短歌が続き、まんがは終わる。そして「温かい」この終わり方が、物語の読後を良いものにしている。「波」のシーンに表象されるように、ストーブは「他者」の分からなさを「分かって」いる。少なくともスミオよりも。あるいは愛する人を失って取り乱す私たちの誰よりも。しかしストーブはやさしい。
 スミオがこの物語で最後に聞くのは、「ふたりがお互いに好きだったこと」なのだから。それは「最近のえっちゃん」が「もしかするとスミオを憎んですらいたかも」しれないことでは、ない。

6.「会話」

 このように追ってきたとき、あの強調された「自分の言葉」が持っていた意味をいくらか掴むこともできるだろう。ストーブが「何度だって」「思い出す」のが、「最近のえっちゃん」が「もしかするとスミオを憎んですらいたかも」しれないことではなく、二人の関係がどのように終わったかということでもなく、「ふたりがお互いに好きだったこと」であるということ。
 「読んでよかったな、明日からまたがんばろう」と読者に思ってもらうのが作者の目標であるのなら、それも正しい選択に見える。たとえ「会話」よりもその中に見出す「自分の言葉」が大事なように受け取られるとしても。
 しかし大白が「いつか絶対に描かなきゃいけない」(『すごい!』33p)ものとして「沖縄戦」を挙げるのなら、この選択は必ずしも正しいとばかりは言えないだろう。かと言ってそれは後味の悪いバッドエンドを目指すことでもない。
 「もしかするとスミオを憎んですらいたかも」しれないえっちゃんが、スミオを好きだった瞬間を持つように、手榴弾を住民に渡した日本兵も、空から機銃掃射を浴びせた米国パイロットも、なにかを愛し、あるいは愛そうとするひとだったのだから。

 美しい思い出を思い出すことも辛い思い出を思い出すことも、私たちは行うことができる。この世界には、どちらの思い出が多いのだろうか? 「すごい!」の批評文にはこうある。

現実には存在しない異端者の目を通して、作者は私たちが普段、当たり前に享受している「奇跡」を鮮やかに浮かび上がらせる。

『すごい!』62p

では、現実に「存在している」異端者が——あるいはそれが「異端者」だとして——浮かび上がらせるものとは、なんだろうか。

2024年2月28日 

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