虐待の加害者となってしまった時に自分の責任と向き合う9つの方法

9 Ways to Be Accountable When You’ve Been Abusive

February 1, 2016 by Kai Cheng Thom

ベッドに座って今まさにキーボードを叩き始めようという時(ベッドでパソコンするのが一番好きなんです)、心のどこかで「この記事を書かないで」という声がします。

それは、私が心のどこかで虐待や親密なパートナー間の暴力といった問題に伴う恐怖や恥の意識に深く共感しているからなのです。

ほとんどのコミュニティでは、レイプや虐待を経験する人がいるという事実を語ることや、私達の身近な人や大切な人がレイピストや虐待加害者かもしれないという事実を語ることはタブーとされています。恐怖や恥の意識はそういったタブーから来るものです。

そして、恐らくその中でも最も恥ずべきで隠しておきたいと思うのは、私達自身が虐待の加害者かもしれない、私達自身が夜の闇に潜むモンスターのような悪人なのかもしれないという恐怖です。

「虐待加害者」になりたい人などいません。自分が誰かを傷付けたのだと認めたい人などいません。傷付けた人が、その人自身深く傷付いている時は特に。

虐待の加害者とサバイバーは二項対立として存在してはいないし、存在していたことなど一度もありません。傷付いた人が別の誰かを傷付けることはあるのです。

このレイプカルチャーにおいて、貴方が経験している痛みと貴方が誰かに与えている痛みの違いを見極めるのは時に難しいです。

七年前、私が親密なパートナー間の暴力のサバイバーのためのサポートワーカーとして働き始めた頃のことです。訓練のためのワークショップに参加していたら、パートナーを虐待しているけれど虐待を止めたいと思っている人からのサポートのリクエストについて、私の所属している団体はどのようなポリシーなのかと質問する人がいました。

返ってきた答えは簡潔に「加害者とは一切活動しません。以上」でした。

まあそうだろうな、とその時は思ったのです。何といっても、レイプや虐待のサバイバーのサポートのために作られた団体なのだから、加害者ではなくサバイバーを中心に据えるべきだろう、と。

唯一の問題点は、サバイバーでもあり、虐待の加害者でもある人はどうなるのだろうということでした。私達の団体が加害者の手助けをしなかったら、一体誰が彼等を助けるのだろうと思ったのです。

(注意:この記事ではある人間関係において「お互いがお互いを虐待している」かどうかは扱いません。それはまた別の機会に。この記事では、ある関係においてはサバイバーである人が、それ以前やそれ以後の別の関係では加害者になり得るのだという話をしています。)

多くの「更生中」または「元」虐待加害者と仕事をしてきたセラピストとして、私は七年後の今もこれらの疑問の答えを探しています。虐待を止める手助けをするための権限や意志、そして/または知識を持つ団体やリソースは非常に少ないのが現状です。

でも、フェミニスト語録にも「レイプされない方法を教えるのではなく、レイプしないように教えるべきだ」とあるでしょう?

これが本当なら、私達は虐待のサバイバーをサポートするだけでなく、虐待の加害者にならない方法を学ぶ手助けもするべきではないでしょうか。

私達自身の中に——私達全ての中に——誰かを傷付けるような力が眠っているのだと認めることが出来るようになる時、虐待やレイプカルチャーを取り巻く対話のあり方を根本的に変えることができるのです。虐待が起きてから反応して「加害者」を罰するだけから、虐待を未然に防ぎコミュニティの回復に尽力できるようになるのです。

だって、革命は家庭から始まるのですから。貴方の家から、貴方の人間関係から、貴方の寝室から、革命は始まるのです。貴方の心から、革命は始まるのです。

以下に紹介するのは、自分の中にいる虐待の加害者と向き合うための9つのステップです。虐待の加害者になる可能性は、貴方の中にも私の中にも——私達全ての中にあるのです。

1.サバイバーの話に耳を傾けましょう。

誰かを虐待していた時、自分の責任と向き合うために一番最初に——けれど最も難しいことの一つですが——学ぶべきことは、貴方が傷付けてしまった人(達)の話を聞くことです:

むきになって自己弁護をすることなく聞くこと。

ごまかしたり言い訳したりせずに聞くこと。

被害を最小化したり否定したりせずに聞くこと。

自分を話の中心に据えようとせずに聞くこと。

誰かに、特に貴方のパートナーや大切な人に、貴方がその人を傷付けた、または虐待したと言われた時、人は容易にそれを非難や攻撃と受け取ってしまいます。攻撃されている、というのが最初に考えることなのです。

だからこそ、多くの虐待加害者が被害者に、「私は貴方を虐待なんてしていない。私を虐待の加害者と言うことで、今この瞬間に貴方が私を虐待しているのだ」というような反応をします。

しかし、これは暴力の連鎖構造が貴方の口を借りて喋っているのです。

レイプカルチャーが私達のために作った筋書に沿って喋っているだけなのです。英雄と悪人、正義と悪、告発者と被告発者がいるに違いないという筋書に沿っているだけなのです。

けれど、貴方が虐待をしていると面と向かって言われた時、それをサバイバー側の勇気ある行動——贈り物だとさえ——だと理解してみてはどうでしょうか。すぐに自己弁護に飛びつくのではなく、貴方がどのように人を傷付けてしまったのかを本当に理解するために、相手の話を聞く時間を取ってみるのはどうでしょう。

非難と懲罰といった観点からではなく、愛情や話を聞くという観点から責任を取るということについて考えるようになれば、全てが変わるはずです。

2.虐待の責任を受け入れましょう。

サバイバーの話を聞いた後、次のステップは、責任は自分にあると認めることです。これはつまり、貴方が——貴方だけが——誰かに対して貴方が行った身体的、感情的、または心理的暴力の原因なのだと認めることを意味します。

虐待の責任を受け入れるというのは、誰かの足を踏んでしまった時にその責任を受け入れることに例えられます。貴方が足を踏んでしまった理由は様々でしょう。急いでいたのかもしれません。前を見ていなかったのかもしれません。もしかしたら、人の足を踏んではいけないのだと教えてくれる人が誰もいなかったのかもしれません。

でも、足を踏んだのは貴方なのです。ほかの誰でもなく、貴方だけにその責任があるのです。それを認め謝罪するかは、貴方にかかっているのです。

虐待にも同じことが言えます。貴方が誰かに対して行った暴力の責任は、貴方だけ、他の誰でもない貴方だけに——貴方のパートナーでも、父権制でも、精神病でも社会でも悪魔でもなく——あるのです。

勿論虐待に至った要因は沢山あります。でも、最終的に私の行動の責任は私だけにあるのであり、貴方の行動の責任は貴方だけにあるのです。

3.理由は言い訳にはならないということを受け入れましょう。

虐待をするような人は悪人だから——サディストだったり他人が苦しむのを見て喜ぶような人だったりするから——虐待をするのだという、とんでもない神話が広く普及しています。

これが、過去に虐待をしていた人、あるいは今も虐待をしている人の多くが「虐待」や「虐待加害者」と言った言葉で自分の行動を言い表すことに抵抗を示す理由の一つです。

実際は、サディズムを動機に虐待を行う人はごくごく少数なのです。

セラピストとして、そしてコミュニティサポートワーカーとしての私の経験では、人が虐待をする時、ほとんどの場合はその人自身切羽詰まっていたり苦しんでいたりという理由があるから虐待をするものです。

虐待の理由として私が聞いたものの中には以下のようなものがあります。

私は孤独なんだ。私を生かしてくれているのはパートナーだけなんだ。だから、(虐待をすることで)パートナーが私から離れないようにしているんだ。

私のパートナーはいつも私を傷付ける。私はただやり返しているだけなんだ。

私は病気なんだ。もし無理矢理にでも私の世話をさせなかったら、私は放っとかれて死んでしまう。

苦しい。この苦しみから逃れる唯一の方法が、自分や他人を傷付けることなんだ。

私のしていることが虐待なんて知らなかった。皆いつも私にそうしてきだ。私はただ、自分がされたようにしていただけだ。

愛することを強制しなかったら、誰も私を愛してくれない。

虐待の理由としてはどれも強く、真実のものでしょう。しかし、同時にこれらの理由は決して虐待を正当化しないし、虐待の免責事由にはなりません。

虐待を許す理由として十分足りるものなどありません。

理由を知ることは虐待を理解する手助けになりますが、それは虐待を許すことにはならないのです。

このことを受け入れるのは、自分の犯した過ちに責任を取り、癒しを得るためには必要不可欠なのです。

4.「サバイバーオリンピック」を開催しないようにしましょう。

私達のコミュニティでは、ある人間関係においては虐待のサバイバーであれば、他の人間関係で加害者になることなどあり得ないというサバイバー(被害者)/加害者という二項対立の虐待モデルが普及しています。

社会正義のためのコミュニティや左翼コミュニティにおいても、抑圧された、または周縁化されたグループに属する人が特権的なグループに属する個人を虐待することはありえないというように、社会分析が個人間の虐待のケースに間違って適用されることがよく見られます。(例えば、女性が男性を、非白人が白人を虐待することはありえないというように)

けれど、上で述べたようなことはどれも真実ではないのです。ある人間関係で虐待のサバイバーであった人が、別の関係では加害者になるということは十分可能なのです。

個人の(権)力だけではなく、社会的な特権によって更に(権)力を得るからこそ、特権的なグループに属する個人が虐待の加害者になり易いということはあります。でも、状況さえ整えば、誰でも加害者になれるし、誰でも被害者になれるのです。

自分の行った虐待を告発された時、つい「サバイバーオリンピック」を始めてしまうかもしれません。「私が虐待なんてありえない」と言いたくなるでしょう。「私はサバイバーなんだ」「貴方が言う私のした虐待よりも、私が受けた虐待の方なんてもっと酷かった」「貴方の方が特権を持っているのだから、私が貴方に何をしようと虐待にならない」などと言いたくなるでしょう。

でも、サバイバーだって加害者になれるのです。どんな人でも加害者になれるのです。

自分のした虐待の被害を比較したり矮小化したりしたとしても、虐待を免責されることはないのです。

5.サバイバーに主導権を渡しましょう。

虐待加害者との対話において、サバイバーが何を必要としていて、どこに境界線を引きたいのかといったことについてサバイバーが主導権を握るのは絶対に必要なことです。

もし貴方が誰かを虐待したのなら、その虐待からの回復のプロセスがどのようなもので、責任を取るのがどういうことなのかを決めるのは貴方ではありません。

その代りに、貴方の虐待を告発した人に:

今何が必要ですか。

貴方の回復のために私に出来ることはありますか。

貴方が前に進むためには、私とどの程度関りを持ちたいですか。

同じコミュニティに属しているから偶然同じ場所に居合わせてしまうかもしれません。そんな時どうしたいですか。

この会話をしていて、今どんな気分ですか。

というように聞いてみて下さい。

同時に、サバイバーのニーズは時と共に変化することもあり、サバイバー自身も自分に何が必要なのか今はまだ——もしかしたら一生——分からないこともあるのだと理解することは大切です。

虐待の責任を取るということは、サバイバーとの対話の過程で忍耐強く柔軟に、そして思慮深くあるということなのです。

6.責任を取ることの恐怖と向き合いましょう。

虐待の責任と向き合うのは大変勇気のいることです。

虐待はありふれていて、誰でも加害者になれるという現実を認めたくないからか、私達の文化では虐待は悪魔化され過度に単純化される傾向にあります。

現実でも想像上のことでも、責任を取るということの結果に向き合うのはとても恐ろしいことです。だから、多くの人は虐待自体を否定することで更なる困難に陥ってしまうのです。

確かにリスクはあります。虐待によって家族やコミュニティ、仕事やリソースを失うのですから。特に、周縁化された人々にとって(黒人や有色人種の人々は法手続きで厳しく差別的な刑を受ける可能性が高いのです)そのリスクはより高いものになります。

私がここで何を言っても、この厳しい現実を変えることは出来ません。

ただ言えるのは、虐待を終わらせるためには恐怖と真正面から向き合う方が、一生怯えて生きるよりはマシだろうということくらいです。真実を言う方が、嘘に隠れて生きるよりは癒しになるだろうということくらいです。

そうして、貴方が自分の責任と向き合うことで、「モンスター」加害者という神話の嘘を証明するのです。

7.恥と罪悪感を分けましょう。

恥の意識と社会的スティグマは、虐待の責任と向き合うことの邪魔をする強い感情的要因です。

自分が「そういう人だ」と認めたくないばかりに、虐待をしていたことを認めようとはしないのです。

虐待は悪いことなのだから、虐待していた人は恥じるべきだという人もいるでしょう。

けれど、私はここで恥の意識と罪の意識の違いが鍵になると主張したいと思います。

罪の意識とは自分のしたことに対して悪く思うことで、恥の意識は自分という人間を悪く思うことです。

確かに虐待をした人は罪の意識を持つべきでしょう。その人がした、具体的な虐待に関して罪の意識を持つべきでしょう。けれど、自分という人間を恥じるべきではありません。何故なら、そうすることは虐待がその人のアイデンティティの一部になってしまったことを意味するからです。自分が根本的に悪い人間——虐待加害者——だと信じてしまうことを意味するのです。

もし貴方が自分のことを「虐待加害者」であり、人を傷付ける悪人であると思っているのなら、戦う前から負けているのも同じです。だって、自分が誰なのかを変えることなんて出来ないのですから。

でも、もし貴方が自分のことを本来は良い人なのに悪いことをしてしまったのだと思っているのなら、変わることは出来るのです。可能性が開けるのです。

8.赦されることを期待してはいけません。

責任と向き合うことは赦しを得るということではありません。貴方がどれほど責任と向き合う努力をしようと関係ないのです。貴方のした虐待を許す必要など誰にもありません。それが貴方に虐待された人なら尚更です。

虐待の責任を取るための過程で、誰かに自分を許すように仕向けたり強制したりするのは虐待の延長でしかありません。

自分のしたことの責任と向き合う時に、赦しを得ることを目的とするべきではないのです。

虐待の責任と向き合うということは、自分が何故どのように他人を傷付けたのか、そしてどうすれば虐待を止められるのかを学ぶということなのです。

でも…

9.自分を赦してあげましょう。

貴方は自分を赦してあげなければなりません。

何故なら、貴方が自分を傷付けることを止めない限り、他の人を傷付けることもやめられないからです。

虐待をしている時、その人は心の中で苦しんでいて、他人を傷付けることだけが自分の中の痛みを止める唯一の方法のように感じています。そんな時、虐待や責任といったゆるぎない現実と向き合うことは恐ろしいでしょう。自分自身を責めるより、他の人を、社会を、愛する人を責める方が楽だと思うでしょう。

これは個人だけでなくコミュニティにも言えます。良い人と悪い人の間に明確な線を引くことで、自分達の中に潜んでいるかもしれない虐待加害者を見詰めるのではなく、「加害者」というぼんやりとしたステレオタイプを作ることで、その恐怖を壁て囲って追い出そうとするのです。そうする方が、ずっと簡単なのですから。

この記事のような自分の虐待と向き合うための手助けとなる道具が極めて稀なのもそのせいなのかもしれません。

自分の責任と向き合い、回復しようと決心するには勇気が必要です。

けれど、そうやって決意した時、新たな可能性を発見できるのです。全ての人の中に良い心はあると、人は誰でも変わることが出来ると、そして、貴方は自分で思っているよりもずっと勇敢なのだと、発見できるのです。






Kai Cheng Thom is a Contributing Writer for Everyday Feminism. She is a Chinese trans woman writer, poet, and performance artist based in Montreal. She also holds a Master’s degree in clinical social work, and is working toward creating accessible, politically conscious mental health care for marginalized youth in her community. You can find out more about her work on her website and at Monster Academy.















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?