「良い人」がレイピストや虐待の加害者である筈がないという考え方をする時に起こる酷いこと6つ

6 Awful Things That Happen When We Think ‘Good’ People Can’t Be Rapists or Abusers

February 15, 2016 by Maisha Z. Johnson

(警告:レイプ、性暴力、被害者非難といった内容が含まれます)

ビル・コズビー:伝説的なテレビ番組の立役者。それとも何十人もの女性を襲ったレイピスト?

ショーン・ペン:素晴らしい俳優であり博愛主義者。それともDV加害者?

貴方の敬愛するコミュニティのリーダー:周囲の人にポジティブな影響を与える人。それとも周囲に害をなす人?

もし、これらの質問に「どうして両方じゃダメなの?」という疑問で返したのなら、貴方は既に性暴力や親密なパートナー間の暴力を理解するための、正しい道を歩んでいると言えます。

人は、多くの人に愛されながら、同時に(別の誰かに)暴力を振るい続けることが可能なのです。人間は複雑であり、素晴らしいことも酷いことも、その両方を行うことが可能な生き物なのです。

でも、どのような人がレイプ加害者になるのかや、パートナーに虐待をするのかということについて考える時、あまりにも多くの人が0か100かの極端な考え方をしてしまいます。

だから、知人や好意を持っている人が加害者になった時、その人は自分が思っていた通りの素晴らしい人物だと信じ続けるか、その人は実はモンスターのような人だったのだと信じるかのどちらか一方を選ばなければならないと感じてしまうのです。

このようなアプローチは、その(加害者となった)人の人間性(その人もまた、ただの人間であるという事実)を考慮する余地を残しません。これが問題なのです。

私達のコミュニティにおいて暴力を振るう人間が皆恐ろしいモンスターのような見知らぬ他人という訳ではありません。それは私達の知っている誰かであったり、愛する誰かであったり、心酔する誰かでさえあるのです。

誤解しないで下さい。知人友人を全員恐れろと脅かしているのではありません。

でも想像してみて下さい。誰かが性暴力被害に遭ったらしいと耳にしました。一体どんな酷い奴がそんなことをしたのだろうと思います。

そして知るのです。加害者は貴方のお気に入りのいとこだと。あるいは貴方の教会の指導者だと。あるいは大学時代に仲の良かった友人だと。あるいは、貴方がどうしようもなく落ち込んでいた時に励ましてくれた曲を歌を歌っていた歌手だと。

貴方が世界で一番好きな人達の内の一人がレイプをするような人であったという事実と、そんなことが出来るのは「モンスター」だけであるという考えに、どう折り合いをつけますか?

この複雑な真実と向き合うことは難しいです。だから多くの人は極端な思考に陥ってしまうのです。被害者は嘘を吐いているに違いないと決めつけるか、あるいはそのレイプ加害者を一瞬でも良い人だと思った自分に落胆し恥じ入るか。

でも、このような極端な考え方に頼らなくてもいいのだということを私は伝えたいのです。

むしろ、性暴力や親密なパートナー間での暴力が複雑な問題だからこそ、人間は「良い人」か暴力加害者かのどちらかしかいないというバイナリーから脱しなければならないのです。

真実はもっとずっと複雑なのです。もし私達が全体像を見誤れば、大きな害をなし、そのコミュニティでの暴力のサイクルが続くことを許してしまうかもしれないのです。

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私達が人間には聖人かモンスターのどちらかしかいないという考え方をする時、以下のようなことが起こります。

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1.加害者が間違ったことをしたと信じたくないから被害者を非難する。

もし貴方が「モンスター」だけがレイプや虐待の加害者になるのだと信じていて、どう頑張っても貴方には「モンスター」だと思えない人が虐待の加害者だったとしましょう。こんな時貴方はどうすればいいのでしょうか。

残念なことに、多くの人は被害者非難に走ります。性的虐待や親密なパートナー間での虐待に対して、非常によく見られる反応です。加害者が「良い人」だとして広く知られているようでしたら、状況は更に悪いです。

もし貴方が加害者は「決してこんなことをするような人じゃない」と思うのなら、被害者が嘘を吐いているのだと考えるかもしれません——あるいは、被害に遭ったのは被害者が悪いからだと考えるかもしれません。

このようなことは、例えば多くの人に愛されているセレブリティが虐待加害者として告発された時、ほぼ毎回のように起こります。告発が真実であるという証拠がある時でさえも。

今現在起きているビル・コズビーの件がまさにそれです。何十人もの女性が薬物投与やレイプ被害を訴えるために進み出て、彼自身も「セックス」のために薬物投与したことを認めてさえいるのに。

伝説的なテレビ番組を生み出したコズビーに対して、The Cosby ShowのDr. Huxtableのような健全なキャラのイメージを大衆は抱いていました。しかし、この事件はそんなコズビーのイメージを粉々に砕いてしまったのです。

だからこそ、今尚ありとあらゆる疑念や罵倒が被害者に投げつけられています。

「(被害者は)彼のホテルに行くのを自分で選んだんだ——セックスするのが前提だということも予想出来なかったのか?何故自分からそんな状況に身を置くんだ?」

「もっと早くに警察に届けなかったんだから、嘘を吐いているに違いない」

「こういう(ミソジニスティックな中傷を入れて下さい)達は彼の金目当てだ」

大衆は人間というイメージをビル・コズビーに持っていないのです。彼がテレビで演じたキャラや、数え切れない人の暮らしを豊かにしてくれた番組を作ってくれた人として見ているのです。

どんなセレブリティでもそうですが、私達は彼という人間の全体像を知りません。しかし、だからこそ、彼が多くの人に愛され敬われているという事実は——彼がレイピストであるという「証拠」が十分にあると貴方が感じるか否かに関わらず——彼がレイピストである可能性を除外しないのです。

レイプと虐待は決して被害者の責任ではありません。加害者が誰からも好かれている人だからと被害者に責任があるに違いないという嘘を広める時、貴方は全ての被害者を傷つけているのです。

2.尊敬する人を神格化し、責任を追及するのを拒否する。

この人が間違いを犯すなどありえないと広く信じられているのは、何もビル・コズビーだけではありません。セレブリティを崇拝する時、私達はしばしばその人達を完璧であると信じてしまいます。

その分野でそのセレブリティが一番である、と信じるだけなら問題はありません。でも、もし完璧であるということは間違いを犯すなんてありえないと信じることを意味するなら、それは有害です。

同じことは私達のコミュニティの住人にも言えます。

例えば、コミュニティの指導者で日々社会正義のために戦っている人を貴方が尊敬しているのだとしたら、その人には悪いことなど出来ないと信じるのは当然でしょう。貴方にとってその人は、解放の可能性や変革への希望、暴力的な抑圧から全ての人が自由である新世界を作ることの象徴なのかもしれないのですから。

だからこそ、その人が暴力加害者であると知るのは衝撃的なのかもしれません。未来への希望に縋るために、その人がそんなこと出来るはずがないと否定しなければならないと感じるかもしれません。

しかし、よく覚えていないといけないのは、誰かが希望の象徴として神格化された時、その人は「象徴」としてのみ扱われているのだということです。誰かを「完璧」であるとみなすことは、その人を人間として見ていないということなのです。

私達は皆、誰かに害を与えることが可能なのです。それは社会正義のための運動のコミュニティにいる人であっても。暴力のサイクルを本当の意味で阻止するには、回復のためのスペースを確保し、暴力が二度と起こらないようにするために、お互いを人間として扱い、悪いことをしたら責任を問うようにならなければいけないのです。

加害者がコミュニティの指導者である時、(指導者を神格化するのではなく人間として扱うことで)被害者非難に向かいがちな有害な規範を変え、虐待の被害を最小限に留めることが出来るかもしれないのです。

尊敬する人が加害者だった時でも被害者のニーズを中心に据えることで、貴方のコミュニティに対して被害者をサポートするとはどういうことか示し、加害者の責任を追及することが出来ます。そうすることで、被害者が回復するのに必要なスペースを作ることだけでなく、加害者が変わるのに必要なスペースや貴方や貴方の周囲の人が、そのコミュニティで起きた暴力の集団的トラウマから回復するためのスペースを作る手助けが出来るのです。

私達のリーダーが絶対に誤りを犯さないなどということはありません。彼等の罪を問うことで、私達はより良い方向へ変わっていけるのだという希望が生まれるのです。

3.本当の正義や責任とは何かを実践に移すチャンスを逃す。

もし、責任とは罪を犯した人を悪人に仕立て上げることだと思っているのなら、敬愛する人の責任を追及することを躊躇してしまうかもしれません。ですから、実際問題正義とは何なのかをもう少し現実的に考えてみましょう。

暴力加害者の不幸を願う人は多いです。誰かを傷付けた人は同じことを自分がされても仕方がないという考えを貴方も持っているかもしれません。

刑務所でのレイプを暴力の問題として考えないというのはそれほど珍しいことではありません。刑務所に収容されているのは悪人であり、彼等がレイプされたとしてもそれは「因果応報」だと考えるからです。

でも、愛する人がそんな目に遭っても構わないと思うでしょうか。例えば、もし貴方が「レイピスト」と「刑務所でレイプされても仕方ない人」をイコールで結んでいるのなら、親戚をレイピストだと考えたくないと思うかもしれません。

本当の意味で責任を問うこと——ポジティブな変化や回復を促すタイプの責任のことです——は暴力による報復とは違います。親戚の責任を追及することは、その親戚への愛情が無くなることでも、その人と話すのを止めることでも、酷いことがその人に起こればいいのにと願うことでもありません。

誰かのしたことに対して怒り、慄然とし、嫌悪感を催すと同時に、全ての人間に(罪を犯した人でさえも)払われるべき敬意をもってその人と接することは可能なのです。

加害者と親しいということは、その人の人間としての複雑さを十分に理解できるということです。確かにその人達は酷いことをしました。でも、彼等には良い行いも出来るのだと貴方は知っているはずです。

責任を追及するということは、彼等が一番良い自分になるためのサポートになり得ます。自分の間違いを認めるように導き、被害者が回復するために必要なものを、彼等が尊重するように取り計らうのです。

これは彼等の行った虐待を免責するということではありません。むしろ、その人を愛する人の一人として、もっと良い行いを彼等から期待しているのだと知らせることで、加害者により高いスタンダードを要求しているのです。

暴力に暴力で応えることは、回復を与えてくれるどころか、更なるトラウマを生み、コミュニティを引き裂きます。

被害者が回復するためのニーズと(加害者の責任を追及するという)正義を中心に据えながらも、同時に加害者に対して愛情を持つことは可能です。

もし加害者が責任逃れをしたり、貴方がどうしても虐待の加害者と関わりたくないというのなら、貴方自身の心身の健康のために境界線を引くことが出来ます。それは、加害者をモンスターだと信じなくても出来ることなのです。

4.同意の意味を単純化し過ぎてしまう。

もし同意というものがシンプルなコンセプトなら、人間が「良い人」か「レイピスト」かのバイナリーに振り分けるのはもっと簡単だったでしょう。でも、同意というコンセプトはとても複雑です。

もし貴方がレイピストと聞いて暗闇で泣き叫ぶ被害者を襲う、恐ろしい見ず知らずの他人という像を思い浮かべるのなら、貴方の尊敬する人とその像を結び付けるのは困難かもしれません。

でも、相手の意思に反して性交を強要する方法は何もこれ一つではありません。実際、知人からレイプされる方がずっとよくあることなのです。

レイピストを「暗闇の不審者」として語ることは、相手が性交に同意するように様々な方法で強要した場合や相手が酩酊している状態で及ぶ性行為、または相手の沈黙を同意と受け取るといった場合の性暴力を除外することになります。それに、もし見ず知らずの他人によるものだけがレイプだと思っているのなら、デートレイプやパートナー・配偶者間のレイプやstatutory rape(承認年齢未満の女性との性交)のことを忘れています。

映画監督ローマン・ポランスキーが13歳の少女に薬を盛って気絶させた後レイプした罪を認めたという件について話していた時、ウーピー・ゴールドバーグがこのような危険な考えを露呈していました。

ポランスキーが告訴されたのは少女の年齢が13歳だったからというだけであると主張しようとして(そして、少女の年齢だけが問題であって、それ以外では彼のしたことはそれ程悪いことではないのだと暗に言いながら)、「レイプっていうレイプではないよね」と彼女は言いました。

どんな形であれ性暴力を正当化するのはかなりの無理が必要になりますが、加害者を尊敬している場合、人はその無理を通そうとするものだということをウーピーの例は示しています。

富と名声に守られた43歳の男性として、ポランスキーは彼の被害者に対して巨大な力を(権力)を持っていました。だからこそ、(権力関係が不均衡だったから)彼女は同意など出来なかったのです。

性暴力は物理的な力によるものだけではありません——power dynamics(権力関係のダイナミクス)を含め、性暴力とはどのようなものなのかの理解を深める必要があるのです。

「見ず知らずの他人を攻撃する人」と「絶対にそんなことをしない人」のバイナリーの間には、様々な性暴力の形態があります。プレッシャーによるものもあれば心理操作によるものなど、まだまだ他にもあります。

レイプにおける「モンスター神話」にはレイピストは見ただけで異常だとか変な人だと分かる——「普通」の人は違う——というものがあります。

でも、被害者の意に反して性行為を強要するような人は、貴方が「普通」だと思うような人だということもありえるのです——そして、それは貴方が尊敬する人ということもありえるのです。性暴力を理解する上で、その可能性を常に念頭に置いておかなければならないのです。

5.パートナー間の虐待を単純化し過ぎてしまう。

私達の社会には、パートナーを虐待している人は簡単に見付けることが出来るものだという考えが広まっています。

家庭内暴力や親密なパートナー間の暴力といった時、何を思い浮かべますか?メディアで最もよく見るイメージは、激しい怒りに任せて女性に(身体的に)暴力をふるう男性というものです。

私達は虐待加害者を「悪い人」だとして、「本当の男性は女性を殴らない」などというシンプルなスローガンで親密なパートナー間の暴力を無くすことが出来ると考えがちです。「私なら絶対にパートナーに殴らせるようなことはない」などと言ったり、パートナーから虐待を受けている人は何故「さっさと出て」いかないのかと不思議に思ったりします。

上記のような考え方は、ある暴力が私達の持つパートナー間の虐待像に上手く当てはまらない時、その暴力を免罪するのを容易にします。

愛する人が虐待を加えるモンスターだと考えられないのなら、その可能性を排除してくれる神話を信じることの方を選ぶのです。

例えば貴方の友人が虐待をしていたとします。でも友人はクィアで、貴方はパートナー間の暴力はクィアな関係では「(起こりえないし)起こらない」と思っています。(クィアな関係でも起こります)

友人のパートナーは今でもその友人と一緒にいます。だから、もし虐待するようなパートナーと一緒にいるんだったら本当の意味では虐待をされていないのだろうと考えます。(違います)

貴方の友人は(身体的に)暴力を振るったことがなく、貴方は身体的な暴力だけがパートナー間の暴力であると考えています(身体的な暴力が唯一の暴力の形ではありません)。

親密なパートナー間の暴力とは力(権力)と支配のパターンです——これこそが、虐待とは何かを社会が考える上で欠けている大きな鍵なのです。パートナー間の虐待は時間とともにエスカレートすることもあれば、虐待加害者は権力を維持するために巧妙な手口を使うこともあります。

つまり、誰かに対する「良い人」とか「悪い人」といった印象だけで、その人は虐待をしているかどうかを判断するのは不可能なのです。

虐待に関する社会の間違ったステレオタイプを捨て去れば、貴方には親切な友人も、恋愛関係においてはmanipulativeということもあると理解出来るでしょう。

そうなれば、その友人が自分のしていることを認め、どうすれば止められるかを学ぶ手助けが出来るかもしれません。

6. 自分が被害者になった時自分を責めてしまう。

レイプや虐待の被害者も、人間には「モンスター」か「聖人」しかいないという考えを内面化することがあります。この考えの最も有害な結果の一つがこれです。

もし貴方の身近な人が貴方を虐待しているのなら、貴方は一人ではありません。

多くのサバイバーにとって、以下のシナリオは馴染みのあるものでしょう:貴方はレイピストや虐待加害者を「モンスター」だと思っています。だから信頼出来る人で自分を取り囲み、自分の安全を守るために正しい選択をしているのだと思います。

でも、貴方の信頼している人の一人が——クラスメイト、パートナー、デートの相手、貴方のコミュニティのリーダー——が貴方に虐待を加えます。

この状況を理解するために、貴方は自分を責めるようになるのです。加害者は良い人だと思われているのだから、何か悪いことをしたのは自分の方なのだと思うのです。または、加害者は最初からモンスターで、自分は「その事実を見抜くべきだったのだ」と考えるのです。

このような自己非難のメッセージはどれも間違っています。これらは虐待加害者は「良い人」や「普通の人」ではありえないという、社会の嘘に基づいています。

数え切れない例が示すように、性暴力やパートナー間の暴力の本質を考えればこれらが嘘であることがわかります。虐待の被害に遭ったのは貴方の責任ではありません。貴方が加害者を信頼していたとしてもです。責任があるのは、貴方の信頼を裏切った人の方です。

私自身サバイバーとしての経験から、「良い人」だと思っていた人が貴方を傷付けたという事実と折り合いをつけるのは容易ではないことを知っています。

その人達と過ごした良い思い出があるかもしれません。その人達を尊敬した理由があるかもしれません。貴方の人生で起きた良いことで、その人達がいなければ不可能だったであろうことがあるかもしれません。その人の存在がなかったら今の貴方はいないとすら感じるかもしれません。

これらの感情はどれも貴方を混乱させるものでしょう。でも、貴方が何を感じようと、その感情は正しいのです。社会が作る「完璧な被害者」という物語に綺麗に収まるようなサバイバーの体験などありません。

貴方の経験を語るのにどんな言葉を使うのかも貴方次第です。もし加害者をモンスターだと呼ぶことが貴方にとって意味のあることなら、それももっともなことです。

もし貴方が、一体どうして貴方がかつて「良い人」だと思っていた人が同時に加害者でもあることが可能なのかを理解しようとしているのなら、勿論そうすることだって出来ます。真実は複雑であり、貴方にはその複雑性と向き合う力があります。そしてそれこそが、貴方に相応しい回復方法を得る手助けとなるのです。

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貴方がサバイバーの立場でも傍観者でも、貴方自身が加害者であったとしても、「聖人」と「モンスター」の合間に留まるのは難しいです。

私達は性善説を信じたいと思うものです。愛する人に傷付けられることのないように、虐待加害者を「悪人」と決め付けることで安心したいものです。

でも、それがサバイバーを傷付けたり、虐待を受けたことで自分を非難したりすることに繋がるのなら、それは暴力を止める手助けにはなりません。

敬愛する人が私達を傷付けることがあると理解することは、人の優しさを信じることを止めることでも、恐怖に怯えて生きることでもありません。

でも、もし「良い人」と「加害者」の極端なバイナリーで考えることを止めれば、暴力のサイクルから私達や私達のコミュニティを解放する切っ掛けを作ることが出来るのです。回復と変化は可能であると知っているから、サバイバーをサポートし、(加害者の)責任を追求できるのです。

私は沢山のサバイバーの方と仕事をしてきましたし、先にも言ったように私自身サバイバーです。だから私自身、人間を完全な善人か完全な悪人に分け、その人の人間性(人間であるということ)を否定することで引き起こされる害を体験してきました。

でも、こうである必要がないことも知っています。極端で狭量な考え方を止めれば、全ての人が回復への道を踏み出せるのです。








Maisha Z. Johnson is the Digital Content Associate and Staff Writer of Everyday Feminism. You can find her writing at the intersections and shamelessly indulging in her obsession with pop culture around the web. Maisha’s past work includes Community United Against Violence (CUAV), the nation’s oldest LGBTQ anti-violence organization, and Fired Up!, a program of California Coalition for Women Prisoners. Through her own project, Inkblot Arts, Maisha taps into the creative arts and digital media to amplify the voices of those often silenced. Like her on Facebook or follow her on Twitter @mzjwords.




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