ひかりのふね

※こちらの小説は、2015年に文学フリマにて頒布した「闇鍋」に収録したものに一部修正を加えたものです。再録の予定等ないので掲載いたします。

ひかりのふね 

 雨が降っているとき、この部屋は方舟のようだ。
 表の道にはひと気がなく、雨が屋根やコンクリートに打ちつけるかすかな音だけが聞こえる。ドアも窓もぴたりと隙間なく閉じられて、冷たく濡れていく外の世界を遮断する、行くあてのない方舟だ。
 翌日が仕事のない日だったので、目覚ましをかけずに眠った。朝、ふんわりと浮力に持ち上げられるように覚醒して、目も開けないうちに雨の音を聞いた。
 起きて顔を洗い、ティーバッグの紅茶を淹れたあと、しばらくぼんやりしていた。北向きの窓のカーテンを開けはなつと、空が雲で覆われているせいか、四角く切り取られた視界は全体的に白っぽかった。
 フローリングの床にはだしで立っていたら、さっきまで寝起きで熱いくらいだったのに足元がどんどん冷たくこわばっていって、慌ててルームウェアの靴下とパーカーを着こむ。なにか音がほしくて小さなテレビをつけるとNHKでニュースをやっていた。

――川崎で起きた中学生殺人事件の犯人は未だ捕まっていません。
――先程岩手県沖で震度三が観測されました。この地震による津波の影響はありません。
――本日午後、オランダ皇太子ご夫妻が来日され、天皇皇后両陛下との夕食会に出席されます。

 ベッドに腰かけて平日とは違うアナウンサーが堅苦しく喋るのを聞いていたけれど、どれもあまり現実感がなかった。宇宙ステーションで地球から配信されてくる何日か遅れのテレビを見ているみたいだった。
 枕元のスマートフォンを、コンセントに繋がったままのケーブルを引っ張って手繰り寄せる。ツイッターをまず開いて、タイムラインのほとんどをスクロールで読み飛ばす。すぐに閉じて、今度はフェイスブックを開く。旅行の写真、明るいカフェでケーキを囲んでいる写真、友達の子どもの一歳の誕生日祝いの写真。休日には投稿が増える。それもやはり遠く思えるのは、私のカレンダーが空白だからなのだろうか。機械的に指を動かして画面を遡っていくと、糸井あすかの投稿で手が止まった。

『イラストレーター十五名によるポストカードブック「30×leaves」に参加させていただきました。六月十日書店等で発売予定です。詳細はホームページに記載しておりますのでよろしければ見てください。』

 URLと一緒にアップされていたのは、森の絵だった。生い茂る葉の隙間から赤や青やピンクの鮮やかな光の粒これでもかというほどこぼれ落ちている。その真ん中で、宇宙飛行士のヘルメットをかぶった少年が空を見上げている。繊細で優しい絵。今や知る人ぞ知るイラストレーター、糸井あすかの絵。
 私は画面を消して、そのままスマートフォンを枕の上へ放った。ベッドの上で壁にもたれ、マグカップを捧げるように両手で持って、膝の間に顔を埋める。過呼吸になった人がそうするようにゆっくりと息を吐きながら、今日これからしなければならないことをまぶたの裏に並べる。
 まずは一週間分の洗濯。洗面所の脱衣かごから洗濯物が溢れそうになっている。とにかく全部洗濯機に突っ込んで洗って、部屋干しするしかない。晴れていれば外に干したかったけれど、仕方ないからシーツやバスタオルはコインランドリーに持って行こう。
 外に出るなら買い物も済ませなければ。油がなくなりそうだったし、食パンや卵、安ければ鳥肉なんかも買いたい。そういえばクリーニングに出そうと思っていたシャツもある。帰ってきたら料理の作り置きもしたい。風呂も洗いたいし、たまには鏡も磨きたいと思っていた。
 やらなければいけないことはいくらでもある。目を開けて立ち上がる。紅茶を一口飲むとそれはすっかり冷たくなっていて、ほとんど残ったまま流しに捨てた。
 洗濯機を回して掃除機をかけ、風呂釜を洗った時には午前は終わろうとしていた。起きてから紅茶と、もらいもののチョコレートを一つつまんだだけだったので流石に空腹を覚え、買い物に出る前に昼食をとることにした。
 トマト缶があったのでそれでパスタソースを作ろうと、鍋を火にかけてから冷蔵庫を開けた。使いかけの玉ねぎと、ベーコンがあれば良かったがなかったので安いソーセージを適当に切る。フライパンに油をしいて、刻んだにんにくと鷹の爪で香りづけし、玉ねぎとソーセージを軽く炒める。沸騰した鍋に麺を入れ、フライパンの方へトマト缶の三分の一ほどを入れた。
 麺が茹で上がるのを待つだけになってしまうと、思考は勝手に糸井あすかのことを思い返し始める。

 糸井あすかは高校の同級生だった。制服のスカートが長くて、三年間ずっと同じショートカットで、いつも困ったような、腑に落ちないような顔をしていた。背はそこまで低くなかったはずだけど、痩せていて猫背でどこかおどおどしていたものだから実際より小さく見えた。
 彼女とは美術部で一緒だったけれど、そこでも余り言葉を交わしたことはなくて、隅の方で黙々と与えられた課題をこなしていた姿が記憶に残っている。部活を休んだことは一度もなかったんじゃないかと思う。真面目そうでいて授業のノートは落書きだらけだったことを、たまたまちらりと見たから知っている。
 あすかは絵が飛び抜けてうまいという訳ではなかった。それは単に、彼女がクラスメイトに自分の絵を見せる機会がなかったからかもしれないけれど、修学旅行のしおりの表紙も、運動会の応援旗も、「描いて」と名指しで頼まれるのは私の方だった。
 クラスや学年で何か絵が必要になるたびに、立候補も公募もなにもなく「詩絵がうまいから詩絵にやってもらおう」と誰かが言って、私が曖昧に頷くことで話が完結するということが繰り返されて、どんどん他が入り込む余地はなくなっていった。クラスメイトからすれば、よっぽど下手じゃない限り誰が描こうが大した問題じゃなかったのかもしれないけど、本当はもっとずっと繊細なことだったのだ。私を含む美術部のメンバーや、絵を嗜んでいる人――もちろんあすかにとっても、それは緊張の走る時間だった。選ばれるかどうか、認められているかどうか。その根底には「自分が描きたい」という気持ちがあったはずで、だけどあの狭い四角い教室の空気は、そんな思いを簡単に潰していくのだった。
 ベルトコンベアが流れるみたいに自動的に私に「絵の担当」が割り振られるたびに、安心したような優越感のようなものと一緒に苦い不安がよぎって、こっそりと他の美術部員の顔を伺った。そういうとき、あすかはうつむき気味でやっぱり困惑したような表情を浮かべていて、でもそれが顔に貼りついたようにいつも通りなものだから、結局何を思っているか汲み取ることはできなかった。
 ある日の放課後、私は任された応援旗のデザインを固めたくて美術室に向かっていた。その日は顧問が不在で部活も休みだったのだけど、美術室自体は開放されていたのだ。
 絵の具や土や木くずの匂いの混ざりあう独特の空気のなか、引き戸を開けようとして、中から人の気配がすることに気がついて手を止めた。歪んだ古い戸の隙間から、かすかだけど話し声が聞こえる。よく耳を澄ませば、聞いたことのある同学年の美術部員の声だった。

「白組の旗って誰が描くの?」
「知らない。また詩絵なんじゃないの。糸井さん知ってる?」
「……牧野さんだよ。絵のことは、いっつも牧野さんだから」

 あすかの声だった。抑えた中にも堅い苛立ちが垣間見える、初めて聞く声音だった。
 だよねえ、もう決まっちゃってるよね、と誰かが答えて、そこにいた何人かが笑った。嘲笑するようでいて卑屈でもあるような、嫌な笑い方。あすかの声はしなかった。
 気道が急に狭くなって、息を吸う音が笛の音のように高く響いてしまうような気がして、私は足早にそこを離れた。
 最後はほとんど走るように美術室のある第三校舎を出て、やっと私は立ち止まった。心臓が早鐘を打って、左胸は痛いほどだった。
 私は自分でも驚くくらいショックを受けていた。こんな風に、自分に対する敵意や悪意みたいなものを目の当たりにするのははじめてだった。
 私は自分の鈍感さを思い知った。みんなの顔色を窺っているつもりで、本当はなんにも考えていなかった。彼らが一人一人感情を持った独立した人間だってことさえ、ちゃんとわかっていなかったんだ。
 今まで、顧問が私の絵を手本として取り上げたり、絵の上手い人としてクラスで私が褒められたりするたびに、みんなああやって思っていたのかと考えたら恐ろしかった。何も考えずに踏みしめてきた足下が、切り立った断崖のふちすれすれだったような気分だった。
 小さい頃から絵が好きだった。それこそ本当に幼いときには、それが上手いかどうかは関係なく、絵を描けば周りの大人たちは喜んでくれた。それが嬉しくて、時間さえあれば絵を描いた。ずっと続けていくうちに周りの人から褒められることが増えて、ますます絵が好きになった。絵を描くことで嫌になることなんかなかった。私にとって絵は誰かと競ったり、奪い合ったりするものではなく、自分だけのものだった。
 信じていると意識することさえないほどに信じ切っていた絵が、自分を追い詰めるものになり得るのだと知った。
 絵を描くことが恐いと、その日はじめて思った。

 気がつくと背後ではタイマーが疲れたようになり続けていて、鍋の中でスパゲッティは水分を吸いすぎて重たそうに揺らめいていた。
 慌てて火を止め、麺をざるにあける。一本つまんで食べてみると、茹ですぎですっかり歯ごたえは失われ、溶け始めた表面がぬるぬるしてまずかった。
 ため息をついて、皿にパスタとトマトソースを盛った。ソースの味はまずまずだったけれど、ふやけた麺が台無しにしていた。私はそれをフォークに巻きつけては機械的に口へ運んだ。
 時間は一時になるところだった。日曜の午後の情報番組はレジャーやイベントの特集ばかりで何の関心も持てなかった。雨脚が強くなっていて、窓ガラスを雨粒が叩く音が大きくなっていた。カーテンレールに吊るした洗濯物が何かの死体のようで、部屋の中の雰囲気をより陰鬱なものにしていた。
 高校でも大学でも友達はそれなりにいたのに、社会人になってからは一気に疎遠になった。なんとなく人と会う気になれなくて、誘いを断りがちだったせいもある。ここ一、二年は特に結婚する知り合いが増えて、友達同士で会う機会自体が減ったように思う。恋人も趣味もない私は、ここ最近はずっとこうして休みを持て余している。仕事なんか好きじゃないのに、早く月曜日になってほしいと思ったりする。
 焦燥感はある。だけどその一方で、SNSなんかで見かける友人たちの動向に興味を持てない自分もいる。結婚したり、出産したり昇進したりする友達の姿を見て、本当に人生は流れるように変化していくんだなあなんて、まるで落伍者みたいな気持ちで眺めている。ずいぶん前から、自分の心が大きな岩のように全然動かなくなっていることに気づいている。
 そんな私の気持ちを、糸井あすかの存在だけが今も揺さぶるのだ。

 高校二年生の秋、進路調査の面談があった。私は志望校として美術系ではない一般の私立大学の名前を書いて提出した。

「牧野さんは、美大は目指さないの」

 担任のよっしーが、丸いメガネのレンズ越しに進路調査票を見て言った。私は制服のプリーツスカートのひだをいじりながらどうでもいいように聞き返した。

「なんで」
「応援旗とか、いつも描いてたじゃない? 木下先生も、牧野さんが一番上手いって言ってたから。あ、これはここだけの話ね」

 センスのかけらもない白いブラウスとうすピンクのカーディガン姿のよっしーは、悪意のない顔で私を見る。木下というのは美術の先生で、美術部の顧問だ。立場上、教師が生徒に差をつけるようなことを言うべきではないのだろうけど、木下が私のことを一番評価しているのは、部内では誰もが知っていることだった。

「絵は好きだけど……それで食べていけるようになるとは思えないし。趣味で描くだけなら、美大じゃなくてもいいし」

 よっしーとは目を合わせずに、教室の隅のほうを見ながら答える。これは本心だった。好きなことを仕事にできる人間なんてほんの一握りだし、仕事にしてしまえば意に沿わないことだってしなきゃならなくなるだろう。進路のことを考えたとき、美大に行くことも考えなかったわけじゃないけれど、改めて考えてみて、絵を仕事にするのは違う気がした。
……それに実際のところ、私は絵に本気になるのが怖かったのだと思う。絵のことで目立って、またあすかや、ほかの誰かに妬んだ目で見られるのは嫌だった。

「私は絵のことは全然わからないけど、牧野さん才能あるのかなと思ってたから、希望するならそれもいいと思ってたんだけど……まあ実際、厳しい世界だからね。仕事にするのと趣味じゃあ全然違うし。牧野さんがそれでいいなら、一般も全然いいと思うよ。絵はどこでだって描けるしね」 

 ただ、この大学目指すならもうちょっと勉強頑張らないとね、とよっしーはボールペンで進路調査票を叩く。適当に頷きながら、私はよっしーの背後の壁に貼られた今年の運動会の写真を眺めていた。私の描いた白い虎の呻る応援旗を掲げる二年三組の面々。一番端で、いつもの困惑したような顔で立つあすか。『牧野さんがそれでいいなら』というよっしーの言葉が、私の中に泥のように重たく沈んでいった。

 高校二年生はあっという間に終わった。終業式の後、私は美術室にいた。引退の後も部室のロッカーに未練がましく自分の画材を残していて、時々顔を出しては隅っこで描き続けていたのだ。だけどそれも今日まで。三年に上がったらカリキュラムも受験に向けて一気に変わる。一般受験する以上、もう勉強に集中しなきゃいけない。のろのろ荷物を片づけて顔を上げると、入り口の方にあすかが立っていた。
 いつからいたのだろう。なんとなく気まずくて、鞄のくちが開いたまま出て行こうとしたら、あすかの、いかにも出し慣れていない小さい声がした。

「牧野さん、美大行かないんだね」

 思えば、あすかが自分から声をかけてきたのはそのときが初めてかもしれない。私は驚いて足を止めた。逆光の中で陰影を深くしたあすかの顔はまっすぐ前を向いていて、こっちを見ようとはしなかった。
 進路面談から何ヵ月も経って、誰がどういう選択をしたのか、だいたいのことは広まっていたから、あすかと直接進路の話はしていなかったけれどお互いに知っていた。ただ、それをあすかから面と向かって言われたことに私は驚き、動揺した。

「……ああ、うん、私は、絵は好きに描いていたいから、趣味で続ければいいかなあって。糸井さんは美大コース、だよね」
「うん」
「プロ目指すの?」
「イラストレーターに、なりたいから」

 思いのほか強い言葉に、私はびっくりしてあすかの方を見る。自分の夢をこんなにはっきり表明した人をはじめて見た。痩せていかにも頼りない後ろ姿に、なんと返したらいいかわからなかった。

「……すごいね」

 あすかの背が緊張したように強張り、そして、小さいけれどはっきりした声で言った。
「私には、絵しかないから」

一年が過ぎて、私は第二志望の大学へ、あすかは美大へと進学し、それから一度も連絡は取っていない。

 大学に進学し、私はダンス系のサークルに入った。ダンスなんてかじったこともなかったけど、やったことのないことをしてみたくて選んだサークルは楽しかったし、それなりに恋愛もあったりして、充実していたと思う。 
 私が元美術部であることを知って公演のポスターやサークルTシャツのデザインを頼まれることもあったけれど、そこまで絵にこだわりのある人はいなかったから何を描いても喜ばれたし、褒められた。楽しくて気楽な環境だった。時間のあるときに気まぐれでスケッチしたりイラストソフトを弄ったりSNSサイトに投稿したりもしたけれど、絵のことを考える時間は高校の格段に減っていた。これくらいの気楽さで絵を描いていられれば十分だと思っていた。
 糸井あすかの名前と再会したのは、大学三年のときだ。
 それは、地元の本屋に立ち寄ったときのことだった。
 小説の新刊が平積みされている真ん中に、ブックカバーが飾られていた。窓辺で横向きに座る女の子。窓の外には空中を泳ぐ熱帯魚の群れ、カーテンのように上部を埋める鮮やかな花々。キリンが首を曲げて部屋の中を覗き込もうとしている。一見ごちゃごちゃした構成だけど、鉛筆のような柔らかいタッチの線と彩度を抑えた色使いで目を引くのに派手すぎないデザインに仕上がっていた。何かが引っかかって、私はその絵に目を留めた。そこには何か既視感があった。
 一緒に飾られたポップにはこう書かれていた。

『ブックカバーカバーコンテスト大賞決定! 東京都 大学生 糸井あすか さん』

 五感がいっぺんに鈍って、夢の中に放り込まれたような気がした。視界が急激にその文字にフォーカスされ、それ以外が消えそうなくらいぼやける。何も考えられないまま、私はそのブックカバーを手に取った。
 美しい絵だった。私の知っている頃より格段に上手くなっているけれど、それは確かに、私も知っている糸井あすかの絵だった。
 あすかは確実に前に進んでいるんだ。あのダサい丈のスカートを履いていた細い脚で。
 自分がそれまでに積み上げてきたものや得てきたすべてが砂になって、ぼろぼろざらざらと不快な感触だけを残してこぼれ落ちていく気がした。何か悪い予兆のように胸の内がざわめく。私は乱暴にブックカバーを戻し、本屋を出た。家までの道のりを足早に歩きながら、あすかの絵と、おどおどしていた高校生のあすかの姿が頭の中で交互に点滅した。
 私は何をやっているんだろう 。何をやってきたんだろう。今さらこんなことがどうして、こんなにも心を乱すんだ。
 家に帰った私はベッドの上で腕の中に顔を埋め、体の中で吹き荒れる風をやり過ごそうとした。
 私にはダンスがある。友達もいるし、絵も好きに描ける。これで充分だ、今のままで満足だ。私は楽しく絵を描いていたい。妬まれたり嫌われたり、競争したくない、そういうのは向いてないって高校のときに気がついたじゃないか。
 壁のコルクボードには、私の書いたサークル公演の宣伝ビラが貼ってあったけど今はそんなもの絶対見たくなかった。
 私は目をつむり、耳をふさぎ、糸井あすかのことを、彼女の絵を忘れることにした。
 私はサークルを引退し、就活して事務系でメーカーに就職した。総務部に配属され、四年目に家を出て一人暮らしをはじめた。あっという間に時間は過ぎて、今年で二十七歳になる。
 生活は安定している。贅沢はできはないけど、普通に暮らしていく分には不自由はない。
 だけどあの時から、誰といても何をしていても、置き去りにした何かが心の中の裾を引いて、私の気を散らすのだ。あすかの絵を見たときからずっと。

 耳の奥で風が轟々と鳴り続けている。
 あの日無視した何かは嵐となり、私の内側で何かを暴くように吹き荒れる。
 牧野さんがそれでいいならいいけど、とよっしーは言った。
 それでいいよ。いいと思ってた。十年前は。
 だけどもし高校生のあのとき、絵を選んでいれば。絵を続けていれば。
 乾いた笑いが漏れた。
 だとしたら、どうだったというんだろう。あの時、私が絵を描き続けることを選んでいたら、今のあすかのようになれていたとでも言うのだろうか? 本気の世界に飛び込めば比べられる。競わされ、数字をつけられる。勝負することを恐れた私が、あすかに敵うとでも?
 あすかが「自分には絵しかない」と言ったとき、私はどこか納得した。それしかないならしょうがないよな。私はもっと他のこともやってみたいし、色んな人と出会いたい。けれど、暗くて、地味で、貧乏くじばかり引いているようなあすかなら絵を選ぶしかないよな、なんて、余裕綽々のことを思った。本当に何も持っていないのは自分の方だったのに。
 いつのまにか力のこもりすぎていた指先が腕に食い込んで、その痛みを確かめるみたいにもっと強く握り込んだ。そうでなければ今にもばらばらになってしまいそうだった。
 よっしー、私に才能なんかなかったよ。絵はあすかより上手かったかもしれないけれど、あの時絵を手放してしまえた私が、あすかに敵うはずがなかった。
 だけど信じてほしい、絵が好きだったことは、大切だったことは本当なんだ。ダンスも楽しかったし、大学も好きだったけど、一番はやっぱり絵だったんだ。そのことに気がついたときから、それ以外のすべてに意味がなくなってしまうくらい。
 こんな言い訳を誰にするつもりなんだろう。十七歳のあの頃ならともかく、今の私に誰も耳を傾けてはくれない。涙さえ流れない大人の私の言葉には。
 無性に息苦しかった。ベッドの上で自分の体を抱えるようにうずくまる。密閉されているはずの部屋に、どこからか水が入り込んで肺にまで沁みてきているようだった。
 安全なはずの舟が沈んでゆく。乾いたまま私を溺れさせる。もう戻れない海原の真ん中で、やっと私は認めた。
 私は、後悔している。
 ふと見ると床にボールペンが転がっていて、私はベッドから下りて、なにも考えずにそれを手に取った。そして、周りを見渡して紙を探した。まっさらな、空白の紙。かつては手を伸ばせばいくらでもあったそれが、この部屋にはどこにもない。
 ひゅっ、と喉の奥に細く息が吸い込まれる。遠く雨の音がして、顔を上げると雲に覆われた空は白く、奇妙に明るかった。
 あの先に太陽があるのだ、と思った。
 私は窓の向こうを見ながら、ふらふらと窓に近寄った。ガラスをいくつもの雨粒が滑り落ちてゆく。濡れたアスファルトの色が濃い。四角く狭い部屋の中は少し肌寒いけれど、安全に乾いている。このまま窓を閉ざしている限り。
 目を閉じて、額を冷たいガラスに押しつける。まぶたの裏に、ひかりの残像が貼りついて消えない。消えてくれない。いつまでも、どうしても。
 私は窓を開けた。

〈了〉

#小説 #人生 #エッセイ #文学 #夢と現実 #嫉妬


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満島エリオ

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