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何度目から友達

「四回も会ってるのにまだ心開いてないの、心閉ざしすぎでしょ」
四度目に会った人にそう笑われて、そうか、四度目って、もうすっかり心を開いてるもんなのか、と面食らって、混乱したまま「そうかも」と頷いた。去年出会ってできた飲みに行くグループの、その中の一人だった。

去年、習い事を始めたり友達の紹介やら何やらで、人生で一番多いというくらいに新しい出会いがあった。
で、くるくると回転寿司のように次々と色んな人と会ったわたしの感想としては、大人の出会いはスピード勝負だということだ。
大人には時間がない(とみんな思い込んでいる)から、みんなハマらないと感じた相手に時間を割くことはしない。そして、そのジャッジは基本的に、初対面の一度きりで下される。そこで相手のフックに引っかかることができなければ、それきり。もとの他人へと戻り、せいぜい使わないラインの友達が増える程度のことだ。あれだけたくさんの人の奔流にぶつかったはずなのに、分母に対して私の手元に新たに築かれた関係性は少ない。

それで、自分は人間力の瞬発性が低いのだなあと思い知った。
たしかに、我ながら声もテンションも低く、表情筋が死んでいて笑っているつもりが真顔ということも多い。自分から盛り上げようというサービス精神も低いし、話の内容も口調もちょっと堅苦しい。そして、会って間もない相手にも指摘されるくらいわかりやすく心を閉ざしている。そりゃあ二度会いたいタイプとは到底言えない。

そんな風に、たくさんの「はじめまして」と、実現しなかったたくさんの「二度目」が暗に示す、自分がつまらん人間であるという烙印に疲れ、今は少し、出会いに対して食傷気味だ。出会いが多けりゃいいってもんじゃない。

そういうわけで、去年一年を通してわたしが学び、「大人になると出会いがない」などと零す人達に対して声を大にして言いたいことは、別に自分が外に出ていく気があれば、大人だろうがいくらでも出会いは転がっていること、そして、いくらたくさんの出会いがあろうとも、その一度で相手を垂らし込む人間力がなければ結局何も残らない、ということだ。

学生当時から今に至るまで、私は学校というシステムを全然好きにはなれないが、しかしあの場所には、教室に行けば嫌でも同じメンツと顔を合わせ、時間を共有しなければならぬ強制力があった。取っつきにくさがピカイチの私でもなんとか友達らしきものを作ることができたのは、考えてみればその強制力に助けられていたのだろう。
そのシステムが取っ払われた今、試されるのは素の私の人間力だ。そんでもって、コテンパンになって敗北感に苛まれている次第である。

ああ、しかし冒頭の君よ。僭越ながらコミュ障を代表して、こちらからも言わせてほしい。
私からすれば「たった四度目」だ。
しかも、その四度の間に一緒にインポッシブルなミッションをクリアしたわけでも、死地をくぐり抜けたわけでもない。時と経験が紡ぐ年輪を感じさせない関係を、やっぱり私は信用できない。そう簡単に「知ってるよ」「仲良いよ」とは言えない。

むしろ、どうしてたった一度でそんなに仲良くなれるの。肩を叩き合い、何もかもツーカーのようなやりとりができるの。たった一度で相手のことをどこまで知れるというの。君らはどこまで信用しあっているの。どこからを友達と呼んでいるの。いったい、何度目から友達になれればいいの。

目まぐるしく進む人間関係についていけなければ取り残されるだけなのだとしても、私は私の速度で進みたい。その歩調に合う人と出会いたい。

#コラム #エッセイ #友達 #人間関係

ハッピーになります。