見出し画像

人の悲しみを喰うな

小学校時代の記憶で、何度も、何度も思い出す光景がある。

とある日のホームルーム。5年生の時だったと思う。
議題はクラス内で起きていたいじめのことだった。
クラスの空気は当然重苦しかった。
女の担任が教卓の前で「みんなでこのクラスのいじめをなくしましょう」とまじめな顔をして言った。

私は自分の席でうつむきながら、こんな大人が上から介入するようなやり方でいじめがなくなるわけがあるか、と思っていた。
そう思っていたのは私だけじゃなかったと思う。
小学生って馬鹿じゃない。特に、いじめなんてセンシティブな爆弾をクラス内に抱えている子どもが、空気を読めないわけがない。

その時の教室の空気を構成していたのは、いじめがあるという状況に対する暗い気持ちだけじゃなくて、こんな方法で状況を改善しようとする教師に対する白けた気持ちとか、大人に対して表向き神妙な顔を見せる小ずるさとか、そういう不純物の多い重さだった。

今、このクラスにはいじめがあります。どうしたらなくなるかみんなで考えましょう。

葬式のような空気の中、担任が懇々と語っていると、どこかから嗚咽が聞こえた。
一人の女の子が泣き出したのだった。
担任もすぐにそれに気づいて、近づいていってその子の肩を抱いた。
担任は「そうだよね、クラスがこんなふうになってたらつらいよね」と自分も涙ぐみながら言った。

その時の、私の気持ち。

なんでおまえが泣くんだよ。
いじめられてんのおまえじゃないだろ。
なんで自分がつらいみたいな顔してんだよ。

全然腑に落ちなかった。

でも、私も爆弾を抱えた教室内で小ずるく生きていた一人だったから、この場でその子が泣いたことは「良いこと」だとわかっていた。
あの子は、他人がいじめられている状況に心を痛めて涙を流せる優しい子で、それは美談なのだった。
ここで「なんで泣いてんの?」と言ったら私が悪者になるのだった。

だから私は変わらず自分の席で黙っていた。
でも、なんだよこれ、とずっと思っていた。
何が自分をこんなにモヤつかせるのか、うまく言語化できないまま、今に至るまで私はこのことを何度も何度も思い出しては思った。
なんだよあれ、と。

*

有名人が若く、突然亡くなったりすると、SNSなんかでそれを悼むコメントが急激に増える。そしてその中の一部は、昨日までその人のことなんか一度も触れていなかった人だったりする。
そうすると、今度は「関係ないやつが死んでからいきなりファン面するな」みたいなコメントが湧き始める。そういう一連の流れを定期的に目にする気がする。

個人的に記憶に新しいのは、今年の4月、ヒトリエのボーカルWOWAKAさんが亡くなった時のことだ。

WOWAKAさんはヒトリエでバンド活動を始める前、ニコニコ動画でボカロPとして人気を博していた。『ローリンガール』とか『裏表ラバーズ』とか言えば、当時ニコ動を見ていた人ならハッとすると思う。私もその一人で、亡くなってからWOWAKAという人が何者だったか気づいた。
そういう、時差的な人気を持っていた人だったこともあって、WOWAKAさんが亡くなった時、「昔ボカロ曲聴いてました。冥福をお祈りします」みたいなツイートがわんさか湧いた。

で、同じくニコ動のボカロ界隈で活躍するウォルピスカーターさんという人がいるのだけど、その人がその時こういうツイートをした。


これが賛否両論を生んで、すこし荒れた。

どう荒れたかはリプライを見ればわかるので書かないけど、この時私は、どっちの気持ちもわかるな、と思った。
好きだったのは本当なんだからそれを表明するくらいいいじゃん、という気持ちと、話題になった時だけ都合よく出てくるな、という気持ちと。

どっちも間違ってはないと思うし、「WOWAKAさんの死を悼む」という部分においては同じ出発点を持っていたはずだ。
ただ、Twitterなんて所詮140文字の世界だし、お互いに真意を汲み取るなんてことどだい無理な話で、この件については、だから色々ぐちゃぐちゃになってしまった気もする。

この出来事自体についてどうこう言うつもりはなく、ただ、この時やっぱり私は、小学5年生のあのHRを思い出した。
なんでお前が泣いてんだよ。と思った当時の記憶。

あの時からずっとモヤモヤしてきたけど、言葉にするならそれは、「人の悲しみを喰うな」ということなのかもしれない。
苦しんでいる人がいるとして、苦しみはその人のもので、だから苦しむ権利もその人にある、という考え。

前もどっかで書いたけど、悲劇ってはやつは、往々にしてドラマチックで美しい。
だから、他人の苦しみを苦しんだり、他人の悲しみを悲しんだりすることは、悲しみを抱えずにドラマだけを味わっているようなもので、だから「おまえにそんな権利ない」と言いたくなるのかもしれない。
「死」なんてものは特に、当事者自体がいなくなってしまう事象なわけで、だからよけいに「悲しみ」の権利を持つのが一体誰なのかが不明瞭になる。
家族? 友達? ずっと好きだったファン? 顔見知り? 近所の人?
わからない。誰も線引きできない。
そもそも、人に死に対して、悲しんではいけない人がいるわけでもない。

結局、口をつぐむしかないのかもしれない。
そしてそれが一番賢いのかもしれない。
そんな場面で、賢さになんの意味があるのかは別として。

*

村上春樹の『ノルウェイの森』の終盤にこんな文章がある。
直子が死んだ後の、「僕」のモノローグだったと思う。

我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学び取ることしかできないし、そして学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。

私たちは死に対する正しい対応を知らないし、たぶん永遠に知ることもない。
ただ死に直面するその都度、あっけにとられて、右往左往しながら、悲しみを表明したりしなかったりすることしかできない。

*

最近、考えすぎてしまって、「冥福を祈る」という言葉を使えない。

だって、冥土ってものが本当にあるのか知らないし、あるとしてどんな場所かもわからないし、そこでの幸福を祈るということがどういう意味を持つのかわからないから。
そもそも、冥福よりも生きている間に幸せなことのほうが重要だと思うし。
もしかしたら冥福はめちゃめちゃ大事なのかもしれないけど、私は現世しか知らないから、やっぱり生きている間を大事にしたい。
その意味が、自分の中で腑に落ちている言葉じゃないと口にできない。
だから私は基本的に「冥福をお祈りします」と言わない。

でも、これって屁理屈みたいなもので、私の個人的なポリシーでしかない。
だけど一方で、私の気持ちなんてどうでもいいことで、それは半分マナーみたいなものだし、例えば遺族なんかの気持ちが楽になるのなら、こんなくだらないポリシーを捨てて「冥福をお祈りします」と言うべきなんだろう。

死に対する正解を知らない。
死んだことがないので、死んだ後のこともよく知らない。
なので、なるべく言葉は生きている人のために使いたいし、他人の悲しみは喰わないようにしたいと思う。
それが真摯さだと今は信じているけれど、それすらきっとエゴでしかない。

#エッセイ #コラム #追悼


ハッピーになります。