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サイレンに追いつかれないように

サイレンが鳴っている。

火事があったらしい。消防車が何台も私を追い抜いていく。
あんまり見たことのない台数だったので、ちょっとびっくりして立ち止まってしまった。買ったばかりのトイレットペーパーをぶら下げた間抜けな格好で。
少し先の道に赤い四角い消防車が何台も止まっていて、消防隊員の姿も見える。

歩道には心なしか人影が多く、近所の住人らしき人達が何人も外に出てきて、消防隊員たちの動向を見守っていた。
私のすぐ近くに立っていた若い男の子がスマホを出して、居並ぶ消防車と消防隊員にカメラを向ける。みっともないことをするな、と私は胸のうちで吐き捨てた。

煙や火の気配は感じられないし、消防隊員の様子も落ち着いている。もうほとんど鎮火しているのだろうか。けれど、サイレンの音は一向に鳴りやまない。
私は角を曲がり、その場から遠ざかる。だけど、遠く高く響くその音は、歩いても歩いてもなかなか小さくなってくれない。サイレンの先で今も何かが燃えていたり、誰かが死にかけているかもしれないと想像したら、だんだん気分が悪くなってきた。

サイレンは、警告の音だ。
いつしか私はそれを、火事のためではなく、私自身に向けて発されているように感じ始めていた。逃げなければ。追いつかれちゃダメだ、という焦燥に駆り立てられる。
私が普段、見ないようにしているもの、気づかないようにしていること、わからないふりをしていること。それを目の当たりにしたが最後、必死に張っている虚勢が崩れて、何かがぽっきりと折れてしまうようなたぐいのもの。
そういうものが迫ってきているような錯覚がする。

私は急いで家に帰り、玄関の鍵を閉める。自宅に帰りついてしまうと、サイレンの音はすっかり聞こえなくなっていた。

下駄箱を開け、今日手に入れたばかりの新品の靴を取り出す。
ずっとほしかったメーカーのローファー。黒く控えめに光る、華やかだが上品な美しい靴。
どうか追いつかれないように私を歩かせてくれ、と私はその靴に願う。

本当の火事場ならばもちろんスニーカーがいい。
でも、私が恐れる暗いものから逃げるのに必要なのは、スニーカーの実用性じゃない。
心を浮き立たせてくれるもの。どの服にこれを合わせようとか、これをはいてどこに行こうとか、明るい想像を掻き立ててくれるものだ。
だからこの美しい靴が必要なのだ。

どうか逃げ切らせて。
どうか何も気づかないままでいさせて。
つまんない真実なんて一生見たくないから。

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ハッピーになります。