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正しい恋の終わり方 1

0/オープニング


『ごめん、もう、無理だ。ごめん』

よく知っていたはずの、だけどほんとは全然知らなかったのかもしれない、きみの声。
私は何度も再生ボタンを押してしまう。心臓をえぐられるような痛みを感じながら、それでもその傷に消えるなと念じて、自分の胸にナイフを突き立てる。

1.


「ようするにさ、あたし一人が盛り上がってただけで向こうからしたらとっくに終わってたらしいんだよねえ」

芳川一馬と歩く、新宿南口・サザンテラス。時間は二十三時を回ったあたり。たぶん。年が明けたばかりの冬の夜、寒さは痛いほどのはずだけど、血管を通って全身をめぐる アルコールにハイになった私には全然気にならない。
一馬を背後に置き去りに、明かりの消えた東急ハンズに向かって、バランスを取りながら赤いタイルの上だけを選んで歩く。子供がよくやるあの遊び。赤いところを踏み外しそうになって、大げさによろめいた。あぶねえ、ワニに食われるとこだった、と言ったら、一馬はうっとうしげに眉をひそめただけだった。

「なんかさあ、しんどいんだけど、でも何度も聞いちゃうんだよね、留守電。そんで毎回泣くの。きも。我ながらきもいわ」

大声を出したらなんだかとてつもなくおもしろいことのような気がして、唐突に腹の底から笑いの衝動が湧きあがる。
やばい、おもしろい、楽しい。私のテンションに一馬がついてきていないのを意識の端っこで感じたけれど、すぐにどうでもよくなって私はげらげらと笑った。笑いすぎて歩けなくなって、視線を落としたら真新しいブーツの先っぽの汚れが目についた。

そう、これは二週間ばかり前に買ったばかりの靴で、褒めてもらいたくて、次に雄介に会う時にはこれを履こうと決めていたのだ。その機会もどうやら永遠に失われたらしかったから今日おろしてきたのだけど、スエード地のショートブーツはどこかで昨日の雨の名残でも引っかけてきたのか、既につま先が濡れて汚れていた。

あーあ、これ綺麗に乾くのかな。今日出したばっかりなのに、もう新品のぴかぴかではなくなってしまった。あ、これ全然楽しくない。雄介には振られるし、ブーツも汚れるし、新品の靴を自慢することも、それをいきなり汚してしまったことを愚痴ることもできない。全然、楽しくない。楽しくないどころじゃない。最悪だ。あたしの人生最低。どん底、0点、さよーなら。

「咲生」

うつむいて立ち止まった私の名前を背後に立つ一馬が呼んだけれど、のどの奥に突如現れたしこりがつっかえて返事なんかできなかった。そのしこりは私の涙腺をぐいぐいと刺激して、まばたきをくりかえして涙が落ちないようにするので必死だった。
今日泣く予定はない。今日は、失恋した格好悪い女の話を面白おかしく男友達に語って、笑い話にするはずだったのだ。たとえ家に帰って、また一人で泣くとわかっていても。

「北見咲生」

一馬が私を、今度はフルネームで呼ぶ。その声は真剣で、シリアスは勘弁してくれよ、と心の中でつぶやいたけれど、私の唇は小さく震えるだけで口角はちっとも上がってくれない。

「痛々しいよ、おまえ」

うるせえ、おまえにあたしの何がわかる。頼むから同情しないでくれ。わかろうとしないで。入ってこないで。一馬がどんな顔をして何を考えてるか、そんなこと絶対に知りたくない。

「なあ、俺、お前が俺の見えないとこで一人で泣いてんの、嫌なんだけど」

一馬は私の知らない声音で、知らない人のように話す。すぐ下では終電間近のJRが次々に発車していく。今何時だろう。私も一馬も、終電にはまだ間に合うよね?頭の隅の冷静な部分で考える。一馬は時間なんて気にしていないのだろうか。
私はずっと、たぶん最初から知っていた。知っていたからこそ私は一馬の前で決しておちゃらけたキャラクターを崩さなかった。大切な気の置けない友達だと、暗に境界線を強調して、踏み込まれないように、変わらないように、ずっとずっと気を張ってきたのだから。
だから私はこの人に涙を見せるわけにはいかない。この人に甘えて頼るようなことをする資格は、私にはない。

「なあ、咲生」

私は振り返らない、ぼろぼろとみっともなく泣いている姿を見せないために。一馬の、境界線を踏み越えようとしている顔を見ないために。
だけどあーあ、あたしの努力はもうすぐ全部無駄になる。大事なものはなぜいっぺんに失われていくのだろうと考えながら、私は頭の中で数を数える。3、2、1。

「――好きだよ」

ドボン。友達ごっこはおしまいです。
下のホームから最後の列車が走り出した。

*

「あのさあ」

電話をかけたとき、明日の発表の準備だとかで裕也がまだ起きていことに心底にほっとした。流石に起こしてしまうのは申し訳ない。
けれどもちろん裕也にとっては全然よくはなかったらしい。ジャージにメガネに前髪をピンで全上げという姿で私を出迎えた裕也は全身で迷惑千万を主張していた。

「終電なくしたのは百歩譲ってまあいいよ。だけど恋愛沙汰のごたごたの後の来られんのは本っっ当に迷惑」
「……なんで知ってんの」
「一馬からタレこみがありましたあ」

じっとりとした目で裕也は画面にひびが入ったスマートフォンを振る。よく見えなかったけど、私が裕也の家に転がり込むと思わなくて一馬がメールでも送ったんだろう。
くそ。男ってのは大事なことを意外とすぐにぽろぽろ話す。裕也と一馬はサークルも一緒だから、きっと裕也は今までそういう相談を散々されていて、二人で飲みに行くことだって知っていたのだろう。もしかしたら今日一馬が告白しようとしていたことまで。そこまで考えると私はもう疲れ切ってしまって、勝手知ったる裕也の部屋にずかずかと入り込んでベッドに寝転んだ。

一馬の告白のあと、私は、「今ちょっと顔ブスすごいだし、電車なくなるし、この話はまた今度!」と無理矢理すぎる言葉を残して一馬から逃亡した。我ながら痛々しいほど混乱していたと思う。もちろんかわいそうなのは一馬だ。
とにかく私はここ何年かでベストな走りでなんとか南口の改札に駆け込み、電子掲示板を見上げ、そこで自分が本当に自宅までの終電を逃していることを発見した。告白された時よりも頭が真っ白になった。
よりによって、今日、いま?
ほんのちょっぴり田舎にある私の最寄駅は、終電の時間もちょっぴり早い。以前裕也にそう言ったら、「田舎じゃなくてド田舎だろ」と言い返された。自分だって上京する前はあたしどころではない地方都市から出てきたくせに。
そうやって時間を守れなかったシンデレラとなった私は、大学の最寄までの電車がまだ動いていることを確認し、大学付近で一人暮らしをしている、今や私の唯一の男友達となった井手裕也にヘルプを送ったのだった。

「告白した女がその直後に別の男の家に泊まるとか……不憫な一馬」

部屋の入り口に立って、汚いものを見るような目で私を見下ろして裕也はそうこぼした。

「そりゃそうなんだけどさあ、あたしにももう少し優しさくれよ」
「つーかおまえさあ……女友達いないの」
「いねーよ。ついでに男友達もたった今なくしたわ。くっそ」
「本当、こんな女のどこがいいのか理解できねえな」
「あたしが一番知りたいよ、そんなこと」

理由なんて知らない、けれど、私はもう真正面から関わってしまった。うやむやに誤魔化せる時間は終わってしまったのだ。
どっかのゲーセンで取ってきたものか、ベッドに放ってあったプーさんの顔のクッションを膝に抱える。
そういえば、裕也は今彼女いるのだろうか。あたしなんかより正真正銘の田舎者のくせに、ちょっとイケメンだからってやたらともてていた時期があったのだ。以前はワンナイトラブの噂をいくつか聞いていたけど、最近裕也が遊んでいるという話はめっきり聞かなくなった。彼女がもしいるとしたら夜中に押しかけたのはさすがに申し訳ない。今さらだけど。

「……まあ、どうでもいいけど、俺は。明日までの資料できてねえから邪魔しないで」

手持ち無沙汰に頭をかいて、裕也は私に背を向けてパソコンに向かう。裕也の視線がこっちに向いていないことにほっとして、私は携帯電話を取り出す。そこには、さっき届いたばかりの一馬からのメッセージがあった。

『さっきはいきなりごめん。でも、いつか言おうと思ってた。時間がかかってもいいから、いつか咲生が俺のこと見てくれたらいいと思ってる。急かさないけど、いつかちゃんと返事を下さい。じゃあ、今日はおやすみ。気をつけて帰れよ』

ただの文字の羅列が一馬の声で反芻される。
一馬はいいやつだ。数少ない私の友人の中で一番、誠実でひたむきだ。そのことが余計に私を苦しめる。あたしなんかよりもっとかわいくて、優しい女の子を見つけてよ。そう思ってしまう。
携帯の画面を一つ戻せば、そこにはまだ雄介のフォルダが残っている。たぶん、もうメッセージの増えることのないフォルダ。
今はまだ読み返すことさえできない、北見咲生と野田雄介の残骸。このままただ化石になっていくだけの。

「野田からメール来たの」

パソコンに視線を向けたまま裕也が聞いた。

「来ねーよ。もう一生あいつから連絡なんか来ねーよ」

投げやりな返事に、なんだそれ、とあきれた声で裕也はつぶやく。
それっきり、八畳の室内は沈黙する。時計の音がつまずくみたいに一つ一つ秒針を回し続ける音と、キーボードの音が薄く聞こえるだけの空間で、私はまたいつのまにか雄介のことを考えていた。
並んで歩くときはいつも貝殻つなぎにされていた手や、顔がくっつきそうな距離で交わされた中身のない会話や、言葉もなく終電に並んで座っていたことなんかを。
そうしたら不覚にも眼の奥が痛くなってきて、私は強く目をつぶる。

「ねえ、がんばるってどういうこと」
「なにを」
「人を好きになったり、自分のことを好きにならせたり、とか。それって頑張ってなんとかなるものなの?」
「……それは、同じことをみんなが考えてる」

猫背ぎみの背中をこちらに向けたまま、少しだけこわばった声で裕也は言った。
私はさらに寝がえりを打って、裕也に背を向けた。すぐ目の前は壁とカーテンが中途半端に開いた窓がある。青い布地に黄色い星がいくつも飛んでいて、なんだか見たことがあるなと思った。そうだ、トイ・ストーリーのアンディの部屋。

「……一馬から離れた方がいいのかな」

不覚にも声は震えて小さかった。無視されるかと思ったが、裕也は即座に返した。

「それは違う」

衣擦れの音がして、裕也がこっちを向いたのがわかった。

「今のおまえは、寂しいだけだろ」
「寂しいから一緒にいるって、それって利用してるってことじゃん」
「それは一馬だってわかってるよ。あのさ、報われないとか振り向いてくれないとか、わかってても、それでも近くにいられる方が幸せってこともあるんだよ」

裕也の言葉には全然迷いがなくて、私はその目を見ることができない。

「一馬がいいって言うなら、おまえは寄っかかってればいいんだよ。俺最近思うんだけどさ、自分の幸せって自分しか考えられないんだよ。だから、咲生は自分がいいと思う方を選べばいいし、一馬も自分がいいと思うようにすればいいんだ」

饒舌に語った裕也は、はっとしたように最後に小さく、と思う、と付け加えた。
照れたのか怒ったのか、裕也はパソコンに向き直ってしまったようで、すぐにぽつぽつとキーボードを打つ音が聞こえた。
私は壁を向いたまま、裕也の言葉を反芻していた。一馬の顔が浮かんだが、それでも最後に残るのは雄介の骨ばった傷のある手で、ああ、やはり私がつなぐのはあの手でなければ駄目だ、と何回目かわからない結論にたどり着いた。
堂々巡りだ。出口のない思考。私はただ考えているふりをしているだけだ。
今はまだここにいよう、と思った。雄介に会える夢が見たい。
私は目を閉じて体を丸めた。窓の近くは寒いな、と思いながら。

〈続〉
正しい恋の終わり方 2

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