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正しい恋の終わり方 4

4.

友達と先生、知っている人同士の不倫という、身近に降って湧いた問題を私はどう受け入れたらいいのかわからなかった。
裕也はそれでいいのかと思うし、名前も知らない香苗さんの夫のことを考えると私は勝手にやりきれない気持ちになる。講義で大教室の後ろから見る香苗さんは相変わらず溌剌とした女性で、どうしたって「不倫」という言葉とうまく結びつかなくてもやもやした。
他人事、と言ってしまえばそうなのだろう。けれどその他人事は私の胸の中でもやもやとわだかまって、いつまでもうまく消化できなかった。

そんな気持ちのままバイトへ行ったら、案の定つまらないミスを連発した。その日は豊田さんがキッチンにいて、無口な豊田さんは特に何も言わなかったけれど、ずっと何か言いたげに私の方を見ていた。
普段は二交代で半日でシフトが終わるのだけど、その日は三城さんに用事があって出ているということで、夜まで頼まれていた。三時になって休憩をもらい、カウンターの外側に回って豊田さんがまかないを出してくれるのを待つ。

基本的にルファルは喫茶店なので、食事のメニューは少ない。オムライスとホットサンドがレギュラーメニューで、そのほかに数量限定の「今日のまかない」というのがある。これは、その日のキッチン担当が自分の食べたいものを好きに作るというもので、「まかないなんだから従業員優先」という三城さんの方針によって、お客さんより優先的に食べることができる。
なので、バイトで店に来てまず最初に聞かれるのは「今日なに食べる?」だ。今日のまかないハヤシライス。好きなのかいっぺんに大量に作れるから楽なのか、豊田さんの日はだいたいハヤシライスかカレーだ。

店内には本を読んでいる女の子が一人と、パソコンを見ながら話し合う私服の男性が二人。とても静かだ。
豊田さんが大きな手で、何も言わなくても大盛りに盛られたハヤシライスの皿をごとりと私の前に置く。

「いただきます」
「はいどうぞ」

まかないを出して手持ち無沙汰になったらしい豊田さんは、カウンターの内側の丸椅子に座って腕を組み、退屈そうに私がハヤシライスを食べるのを見ている。食べにくいからやめてほしい。何を考えているかわからないいつもの表情のまま、おもむろに豊田さんは口を開いた。

「あの陰気な美大生に振られたんだってな」
「陰気って言うな振られたって言うな」

デリカシーのない人だな。
ちょっとだけイラっとして、私はスプーンの先端を噛む。
豊田さんは三城さんの大学の後輩なんだそうだ。二人とももともと会社員だったらしいけど、どういう経緯でこの店を切り盛りすることになったのかはよく知らない。
人当たりがよくて優しい三城さんと、仏頂面で歯に衣着せないタイプの豊田さんは真逆のタイプなので、どうやって仲良くなったのか不思議だ。

「引きずってるらしいな。ご愁傷さま」

かけらも心のこもっていない言い方だった。

「豊田さんって時々びっくりするくらいむかつきますよね」
「お前も年上に対してマナーを学べよ」
「豊田さん以外には礼儀正しいんで」
「ほー、初めて知ったな」

マルボロのパッケージを叩いてタバコを出しながら、豊田さんはどうでもよさそうに言った。本当失礼だ。
だけどなんだかんだ言って、私はこの空気を読まない大人が嫌いじゃなかった。
一緒に働いて、何度も助けてもらったから知っている。豊田さんは鈍感な人じゃない。
三城さんみたいに優しい声をかけられたら、たぶん私はまた泣いてしまう。だから豊田さんはわざと空気を読まない。
この会話は、豊田さんの優しくない優しさなのだ。たぶん。

「……野田ねえ。あいつタバコの空き箱で戦闘機作るやり方教えてやるって言ったのにもう来ないのかね」

豊田さんにつられて、カウンターの隅を見た。そこにはタワーの形をしたブリキのオブジェと、その足元にタバコのパッケージでできた飛行機二台飾られている。

一つは豊田さんのマルボロ号、もう一つは三城さんの、青と白のパーラメント号。どちらも豊田さんが作ったものだ。ルファル自体は全面禁煙だが、三城さんも豊田さんも喫煙者だ。去年の十二月、「作り方を聞いた」と言って豊田さんがマルボロ号持ってきて、やり方を教わったものの意外と不器用で挫折した三城さんのパーラメント号を豊田さんが完成させた。
店に来て二つの戦闘機にいたく感動した雄介は、今度空き箱を持ってくるから作り方を教えてほしいと豊田さんに頼んだ、その場に私もいた。そうだ、その日も豊田さんと私の二人で、私は皿洗いをしながら雄介タバコ吸わないのに、どこから調達してくるんだろうと考えていたんだ。
確か帰り道にそれを聞いて、雄介はなんと答えたんだったっけ。
物思いにふける私に、口寂しいのか火のついていないたばこを口にはさんだ豊田さんが言う。

「失恋引きずってたっていいことないぞ。さっさと忘れちまえ」
「……そうだけど、また別の問題もあるんですよね」

そう、雄介のことももちろん問題だけど、今は裕也の不倫問題の方が心に重たかった。失恋は、それでも理解できる範疇にあったけれど、不倫は完全に私の日常の外側にあると思っていた。
ていうかあれきり裕也とは顔を合わせていないけれど、こっちから連絡をしてもいいのだろうか。あたしはもしかして、このタイミングで唯一の男友達すらもなくそうとしてる?

にわかにお腹のあたりがざわざわし始める。何かに対して今すぐアクションを起こさなければいけないような、そうしなければ取り返しのつかないことになってしまうような。急に、今日夜までバイトに拘束されることに焦燥感が募る。募ったってしょうがないけど、できることなら今すぐ帰りたい。それで誰かに大丈夫だよね? と確認したい。だけど何を、誰に? 今やあたしには縋れる人が誰もいなくなってしまった。

ルファルの真ん中で、どうしようもない心もとなさに落っこちそうになったその時、ドアベルが鳴った。
砂糖の補充をしていた豊田さんがぱっと顔を上げる。
とっさに私も振り返ると、三十代半ばくらいの小柄な女性が立っていた。
その顔を見た瞬間、豊田さんの顔が少しだけこわばった。

「こんにちは」
「……山県さん。お久しぶりです」
「久しぶり、本当に」

山県さんと呼ばれた女性はカウンターの前まで来て真ん中の席に座る。こっそり横目で見た、隣の席に置かれた鞄。トリーバーチのトートバッグに、上品なパンプス。大人の女性。

「今日、三城は?」
「三城さんは用事で、今日は夜まで帰りません。連絡を取ってないんですか?」
「たまたま近くまで来てせっかくだからと思ったんだけど、いないならいいの」

普段豊田さんは三城さんのことを店長と呼ぶ。それを名前で呼んでいるということは、三人は店とは関係ないところでの知り合いということか。
その割には、豊田さんの態度はどこか他人行儀で、なんだかぴりぴりしている気がする。

休憩時間が終わりに近づいてきたので、食べた皿を手にこそこそとカウンターの裏に回る。狭い厨房で洗い物をしながら、エスプレッソを淹れる豊田さんと女性の会話に耳を澄ます。

「どう、うまくいってる? お店」
「まあ、そこそこ。そう悪くないです。三城さんも俺も、金もうけしたいわけじゃないし」

カフェラテ用のマグカップがカウンターに置かれる音。コーヒースプーンが陶器にあたってチンと鳴る。

「あなたも三城も欲がないね。清廉すぎて見てて不安になる」
「三城さんはともかく、俺はぜんぜん清廉じゃありませんよ」
「そう? 豊田くんが三城と一緒になって会社辞めて店を始めるなんて言い出した時にはびっくりしたよ。正直、今でも理解できないな。私が女だから?」
「さあ、性別は関係ないんじゃないですか」
「……まあ、お店は軌道に乗ってるみたいだし、二人とも今すぐのたれ死んだりはしないみたいで安心してる」
「人はそう簡単には死にませんよ」
「そうね」

それから二人はしばらく無言になった。店内には、私が皿を洗う音だけが響いて、それが場を白けさせやしないかと不安になった。その中で、女性がぽつりと言った。

「――どうしてかな、未だにあたしは三城を見ていると苦しくて、もう全部投げ出してもいいからなんだってしてあげたいような気になるの。結局あたしには、無理だったのにね」

自嘲するような、どこか遠くの銀河に思いを馳せるような声音だった。何も答えない豊田さんの顔が見たかったけど、私からは体格のいい背中しか見えなかった。
二人組の男性客が会計をして帰っていき、その後三人組の女性グループとカップルが入ってきた。山県さんは店内が混みだしたのを見てすっと立ち上がり、「また来るね。ごちそうさま」と言い残し、フェラガモの長財布で会計して店を出ていった。
料理のために厨房に入ってきた豊田さんと入れ違いざま尋ねる。

「さっきの人、誰ですか?」

豊田さんはちらりとも私も見ないで言った。

「三城さんの、元奥さん」

*
三城さんは閉店後に帰ってきた。フェルト地のコートを着た三城さんはいつもよりふっくらしている。

「今日はありがとうさっちゃん。豊田君もお疲れ」
「夕方ごろ、山県さんが来ましたよ」

豊田さんの報告に、白いマフラーをほどきながら三城さんは首をかしげる。

「まどか? あー、何か言ってた?」
「特には。また来るって。あとは、店がうまくいってるみたいで良かったって」
「まあ、脱サラして飲食店経営なんて心配だろうねえ」

あはは、と屈託なく笑う三城さんに、動揺や暗い陰は見当たらない。ホールを片付けながら、迷った末に聞いてみた。

「三城さんって結婚してたんですね」
「まどかのこと? そうだよー。まどかとは大学のゼミで一緒で、卒業してすぐ結婚して、二十六で別れちゃった」
「え、若い」
「そうそう。で、その後は二十七で会社辞めて、このお店作ったんだよ」
「すごい……スピーディーな展開ですね」
「そう。もう人生でやることやっちゃったから、俺はもうルファルが墓場でいいの。潰れなければねー」

またけらけら笑って、片づけを手伝うために腕まくりしながらカウンターの内側に入る。

「あの、なんでこの店を始めようと思ったんですか?」
「んー? それはねえ」

カウンター越しに尋ねると、三城さんは洗い物の手を止めた。

「俺には、この距離が一番楽だってわかったから」
「この距離?」
「そう。そっちとこっち。この場所には、このカウンターに区切られた関係性しかない」

私との間にあるウォルナットのカウンターに目を落として、三城さんはそう言った。その言い方がなんだか自嘲するみたいで寂しくて、私はそれ以上なにも訊くことができなかった。

〈続〉

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