えり

本を読むのが好きです。文章を書いていきます。

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    文学作品に重ねて、思うことを綴ります。

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2021.04.19 小魚を逃がしていく

 残業を2時間近くして帰宅。あたまが疲れ果てており、チーズ牛丼と唐揚げと肉団子という組み合わせで晩ごはんを調達してきてしまった。  マスクをしっ放しで一日じゅうフル稼働しているため、夕方にはすっかり酸欠になっている。  自転車に乗っている時だけはらくだ。顔から外してひもで首から吊るし、なまの空気を思い切り吸い込むことができる。  帰りは疲れでぼうっとしたまま、気分転換がてら自転車でいろいろと遠回りし、寄り道をした。  3ヶ月に一度のペースで交換している常用のアロマディフュ

    • 2021.04.10 呆ける身体、2021.04.11 青々と春夏

      【2021.04.10】  待望の週末。朝は10時半頃に一度目が醒めて、そのままベッドのなかでまどろみ、起き上がったのはお昼前。  とにかく空腹だったので、きのう週末分をまとめ買いしていた食材から豚肉と白ネギを取り出し焼肉のタレで炒めたものを作る。肉が好物なのでむかしからとりあえず肉に何かしらの味を付けてささっと焼けば満足なタチなのだ。それを皿に山盛りと、ゆうべの残りのお味噌汁、ほうれん草のソテー、白ごはんで食事。  さすがに量が多かったので食べ残したぶんはラップして冷蔵

      • 2021.04.03 きなり色の土曜日、2021.04.04 雨音に閉じこもり眠るだけ

        【2021.04.03】  アラームを掛けていなかったのに10時00分ぴったりにぱっちりと目が醒めた。視界も身体も驚くほど軽く、いつもは一時間はベッドから出られないのに、今朝は起き上がり小法師のようにヒュイッと起きた。そのままの勢いでコンタクトを付け、前髪を留め、寝起きの飲みものもくちにしないまま、一心不乱に週末おまとめの大掃除。  浴室もトイレもキッチンも部屋も、久しぶりに手を止めることなく一気に片づけられて安堵する。Amazon musicで唾奇のリストを聴きながら。

        • 2021.04.02 新しい葉がうまれる

           起床すると、きのうまでゼンマイのように縮こまっていた合歓の木の新葉がひらいていた。まだ色彩そのものにすら慣れていないといった風情の、赤ちゃんのうす緑色。触れるとやわらかい。  きっと二、三日もしないうちに、あっというまに大人の葉になる。  春めきも盛りに差し掛かり、部屋の植物たちが先週からぐんぐん新葉を出して伸びている。吊るしているビカクシダたちも、鉢植えたちも、エアプランツたちも、それからケースのなかの苔までも。  ビカクシダ以外はほとんど去年の初夏、緊急事態宣言にま

        2021.04.19 小魚を逃がしていく

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        記事

          2021.03.29 桜の海を走った

           ここをひらいたのいつぶりだっけ、というのと、あとここへ日記を書いたのは、まるっと一年前なんだな、と日付を見てすこし驚いた。いや、書いていなかったのはもちろん知ってはいたものの、数字として目にするとあらためて突き付けられる。  先日、積み重なっていたわたしのもやもやが良くない方向にうごき、ながく準備してきた新しい書き仕事が最後の最後で駄目になった。最初にもやもやを感じたときに勇気を出して、先方に疑問点を訊ねて、きちんと教えてもらえばよかった。書いた文章のモチーフをくれた友人

          2021.03.29 桜の海を走った

          松浦寿輝 作品紹介(2019年まで)

           一年前の2019年12月29日、大阪のtoi booksで「toiの読書会特別編トークイベント『松浦寿輝をめぐる黄昏時』」に登壇しました。一緒に松浦寿輝の作品について語り合ったのは作家の雛倉さりえさん。たくさんの方にお越しいただき、とても楽しい読書トークイベントでした。  参加者へは特典としてわたしと雛倉さんが寄稿した小冊子(製作:toi books)をお渡ししていましたが、イベントから一年が経ったので、そのなかからわたしが担当した松浦寿輝の作品紹介の部分をnoteで無料

          松浦寿輝 作品紹介(2019年まで)

          春と名前のこと

           沈丁花の匂いがむかしからとても好きで毎年この時期はひっそりたのしみにしているのだけど今年はその匂いを空中に感じる前に春の温度がきょう来た。と思って、良い感じの温度だったので仕事のあと最寄駅を越えてターミナル駅のショッピングモールに寄ってみたらアオヤマフラワーマケットの軒先にてのひらサイズの沈丁花ポットが売られていた。  針金にようやく支えられて伸びているひと枝だけが植えられているほんとうに小さなポットで、ちょっとほしいなと考えたものの自分がいつも好きでいる沈丁花はどこかよそ

          春と名前のこと

          2019年の文章のこと

           年の瀬にその一年の活動をふりかえる的なものを今までやったことがなかったのですが、今年は文章面で新しくはじめられたものがいくつかあったので、noteにかんたんに記録しておきたいなと思いました。  以下時系列順に。 ---------------------------------------- *webでのエッセイ寄稿 ニセモノの檸檬を握りしめなければ、生きていくことができなかった  人生で初めて「磯貝依里」名義のお仕事として、本や自分の身辺についてのエッセイを(公に向

          2019年の文章のこと

          散文詩「Air Waves」 / 『Night Flow Remixes』

           夜風を割り、左右の景色を吸い込んでゆくように滑り込んできた電車に、ぼくはぼくの手を引いて乗り込んだ。  夜光虫にそっくりな、終電間際の快速電車。  ぼくは夜で、そしてまた、ぼくも夜だった。  さっきまでは別の、夕方のぼくがいたけれど、駅へ向かう途中、団地の西棟の奥へ沈む太陽と一緒に溶けて消えてしまった。  それで、歩いているうちに、いつのまにか新しいぼくがぼくの手を引いていたのだった。  今度はぼくが、ぼくに手を引かれる番みたいだった。  ぼくとぼくはいつもふた

          散文詩「Air Waves」 / 『Night Flow Remixes』

          エッセイ:汽水記 第4回/「これから生きる野の記憶」

          なくても ある町。そのままのままで なくなっている町。電車はなるたけ 遠くを走り 火葬場だけは すぐそこに しつらえてある町。みんなが知っていて 地図になく 地図にないから 日本でなく 日本でないから 消えててもよく どうでもいいから 気ままなものよ。  五月末、大阪市内に引っ越してひとり暮らしをはじめた。  三月末、勤めていた北摂の大学の任期満了にしたがって退職し、大きな赤い花だけの花束をお世話になった助教の先生方からプレゼントされ、なぜなのか教授の子どもがゾンビの話を

          エッセイ:汽水記 第4回/「これから生きる野の記憶」

          小説 『水面に向かって』

           大量の人間たちの緊迫した眼の光がその一点に注ぎ込まれた。と同時に、鈴の音のような得体の知れない音が周囲からさざめきたった。きっとそれは、この場にいる人間たちの突如いっせいにふくれあがった鼓動の反響にちがいない。JR環状線京橋駅と京阪京橋駅をむすぶ北口のひらけた空間が一瞬完全に固まった光景を、わたしは見た。人間たちはその鈴の音が止むと、スイッチを入れられたように絶叫をあげて逃げまどった。  わたしの瞳のなかでひと組の男女が雑踏のド真ん中で刺し違えていた。北口の空間のやや東側、

          小説 『水面に向かって』

          エッセイ:汽水記 第3回/「彼岸のことはわからない」

           ふしぎなことに、子どもの頃に培ったイメージというのは大人になってもひっそりと続いている。  たとえば「曜日」なる存在は未だに子ども時代の習い事別にイメージとして区分けされていて、月から土までいずれの曜日もひとつかふたつの習い事に行っていたわたしは、朝起きて今日が月曜日だと知ると「お習字の日」というイメージに包まれながらその一日を開始する。帰宅して眠り、翌日になれば、火曜日は「公文と英語の日」。水曜日は「絵の日」、明けて木曜日は「ピアノと塾の日」、金曜日は「公文と英語の日」

          エッセイ:汽水記 第3回/「彼岸のことはわからない」

          エッセイ:汽水記 第2回/「金魚にピアス」

          「スプリットタンって知ってる?」 (『蛇にピアス』P5)  分かれた舌先でぺろりとタバコをくわえ、馬鹿げて明るい調子で男が発したこの言葉。この冒頭の衝撃は、いまでもわたしの耳にふとした瞬間強烈に蘇ってくる。この男が「私」に向かって得意げに舌をつきだしたのはいまからもう15年も前のことなのに、いつだって鮮やかにその光景が眼前にあらわれて、「君も、身体改造してみない?」というその後につづく軽やかな誘いは、いつだってわたしの首を無意識のうちに縦に振らせる力をひそませているのだ。

          エッセイ:汽水記 第2回/「金魚にピアス」

          エッセイ:汽水記 第1回/「ホムペの遠浅」

           秋と冬のあいだの肌寒い日、乾燥した教室の片隅でカチカチカチ、とケータイの下スクロールボタンをただひたすら連打する。制服のスカートの股の上、糊のゆるんだ襞のあいだに埋めるようにしてケータイを隠し持つ。小さな画面に浮かび上がっているのは声も知らないどこか遠くの人間の、それでいて自分の心にいちばん近い人間の書いた長い長い日記で、そこに紡がれた彼ら彼女らの何気ない日々の光景を、わたしはまるですがりつくようにしてむさぼり読む。深くうつむいたわたしの頭上ではクラスカーストの高い生徒たち

          エッセイ:汽水記 第1回/「ホムペの遠浅」

          「それはまさしく寝ても覚めても」/映画『寝ても覚めても』を観ながらかんがえたこと

           ひとはたいてい、「思い入れ」から物語に出逢って、触れる。  のちにそれが好きになるものなのか、あるいは嫌いになるものなのか、それは触れたその瞬間にはわからない。けれどたとえば、本屋で或る一冊の本を手にしたその時、ひらいたそのページにもしも自分が見た光景があったり、いま実際に自分が生きている場所が描かれていたり、感じたことのある感情が記されていたら、そのひらいたページを無意識のうちに目が追い、吸い込まれるようにそのシーンの続きを読み、そのままレジに持っていって買って、帰宅して

          「それはまさしく寝ても覚めても」/映画『寝ても覚めても』を観ながらかんがえたこと

          「言葉を演じるひとたちの」/『文芸翻訳入門』刊行記念トークイベントに行ったり、そうしたらいろんなことを思い出したり。

           たとえばほどいた先に見えるのは、遠い記憶のなかの光景。  今は亡き祖母の家の、その涼しい畳敷きの部屋で。あるいは気ままな独身生活を謳歌する叔母たちが旅や仕事に行ったあとの、ひっそりと静まり返った彼女たちのベッドの上で。タオルケットにくるまった子どものわたしが夢中になって読書しているその脇に積まれていたのは、思えばそのほとんどが海外生まれの物語たちなのだった。  わたしには叔母が五人いて、彼女たちはそれぞれ、ブルーグラスをやっていたり、ニット・アーティストとして個展をひら

          「言葉を演じるひとたちの」/『文芸翻訳入門』刊行記念トークイベントに行ったり、そうしたらいろんなことを思い出したり。