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おいしいを奪うな!~レストランで悲しい気持ちになった話~

先日、あるレストランにいった。そのレストランのシェフは、アルチザン(職人)でありながら、独創的な食材の組み合わせ、旨味の重ね方、五味のバランスに、香りやテクスチャーの表現など、どこをとっても妥協のない、心の底から尊敬する素晴らしい料理人だ。

おそらく1年ぶりくらいに食事をしたが、前にも増して、どれもが深化(進化ではなく)していて、「『おいしさ』でまだまだ感動を得られるんだ」と、久しぶりに深い感銘を得た

「そんなにおいしくなくていいのに」

それと同時に、すごく申し訳ないのだが、「ここまでおいしくなくてもいいのに」と思ってしまう自分がいた。「膨大な時間と労力が、このおいしさの向こうにある」ことが見えてしまったからだ。

そのレストランは、厨房の様子も見えるからスタッフの人数を数えることができる。そうすると、この人数でこのコースを作るとしたら、法律で定められた労働時間内で終わらせるのは無理だな、と容易に想像がついてしまう。

じゃあ、どうしているのだろうと考えると、シェフが無理してひとりでやるしかおそらく方法はない。案の定聞けば、肉以外のフォンやジュはシェフが毎日一人でひいているという。

それなら、シェフの負担を減らすために調理スタッフとサービスを増やせばいいじゃないかと思う人もいるだろう。しかし、そう簡単な問題ではないのが料理を味わえばわかる。職人的な日々の調整なくしては、あの料理は生まれない

次の世代に伝承することもできず、ただひたすら自分ひとりでキッチンで仕事をしている。「セルフブラック企業」なんて言葉が、悲しく響く。

「働き方改革」と「超人材不足」というレストランにとっては八方ふさがりのなかで、これじゃ、仕事を重ねていくことで圧倒的なおいしさを生み出す料理人は「消えてください」といっているようなものじゃないか。

「おいしいものを作って喜んでもらう」ということをやっているだけなのになぜ――。

そんな悲しい現実に、僕は「おいしい」という言葉を奪われたのだ。

誰かの「おいしい」を奪うな!

国境や人種を超えて、さまざまな立場の「食」が生まれ、新しいイズムが形づくられている。僕はそうした「食べること」が急速に社会に接続していることに、たぶん不安を感じているのだと思う。

フランスでは、土地を意味する「テロワール」を大切にするように、どの国の料理も、もとは土地の食材の組み合わせによって生まれてきた。これは、とうぜん日本も同じ。地方の郷土料理の上に、和食は成り立っている。

しかし、地球規模の再編が、土地に縛られずに行われることになれば、これまでとは異なる「食の価値」が定義されるのは、十分に想像がつく。すでに捕鯨や廃棄食材の問題、ヴィーガンの増加などもその一例かもしれない。

そのこと自体は自然な流れだと思っていて、歓迎している。新しい食の価値は、多様性につながり、ひいては多くの人にとっての「おいしい」につながると思っているからだ。

しかし、なぜか多様性そのものが目的になってしまうことが多い。働き方の「改革」が目的になってしまって、本来の「多様なおいしい」が、どこかへ行ってしまったように。

自分の「おいしい」と誰かの「おいしい」は価値に差がないということであり、真の「食の多様性」は、誰かの「おいしい」を奪うものであってはいけないはずだ

さまざまな価値を提案しようとしていくなかで、このことだけは決しておきざりにしてはいけないと思っている。

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